2014年上野周辺・寛永寺墓参記 その3

 タイトル通り、その3です(笑)
 今回回っている辺りは、実は私の母方のお墓がある近くでして。親しみを持って歩いてきました。


 本日もお越しくださいまして、拍手もありがとうございます。では続きへどうぞ。


〜2014年上野周辺・寛永寺墓参記 その3〜

◆源空寺◆

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浄土宗のお寺さんで、源空は法然の諱だそうです。増上寺の末寺。1590(天正18)年、湯島に草創されたましたが、明暦の大火で焼けて当地へ移転しました。

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境内にあるこの梵鐘は、徳川三代将軍家光の寄進だそうです。
家康から家光までの帰依が深く、このほかにも家康や秀忠ゆかりの品々が5点ほどあるとのことです。

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境内墓地へ移動。
伊能忠敬のお墓です。
「大日本沿海輿地全図」「大日本沿海実測録」十四巻を作成したことで有名ですね。
十七年間に渡り日本全国を歩いて測量を行い、弟子たちの助力もあって没後三年に上記の地図が完成しました。
師匠である高橋至時(後述)の側に葬ってほしいとの希望で、このお寺さんに眠っています。

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高橋至時のお墓です。
父から御定番同心の職を継いでおりましたが、暦学を好んで天文学を学び、寛政暦という暦を完成させました。
また、地図の編集にも携わり、伊能忠敬を指導して地図の作成にも尽力しました。
伊能とともに、「日本地図の父母」と呼ばれているそうです。文化元(1804)年没。

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こちらは高橋景保のお墓です。
至時の子で、天文方の仕事をしていましたが、日本地図流出未遂のシーボルト事件に関わったとして捕らえられ、獄死してしまいました。文政十二(1829)年没。
左にある墓碑にはシーボルトからの感謝の言葉が彫られていて、ぐっときました。

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幡随院長兵衛夫妻のお墓です。
元は肥前国唐津藩士の子でしたが、父が藩内で同輩を斬って上野国に落ち延びてきました。
が、長兵衛が十三歳の時、庄屋の子と喧嘩をしたのがもとで父が切腹の憂き目に遭い、長兵衛は江戸へ出ます。
旗本へ人を派遣する口入れ屋となった後、江戸町奴の親分にまでなりました。
旗本の長と対抗し、無礼討ちにされたそうです。1657年没。
日本の侠客の元祖とも言われ、講談や歌舞伎などの題材として取り上げられています。

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谷文晁先生のお墓。
私の大好きな絵師・酒井抱一の友人で、多彩な絵を描きすぎるため代表作が挙げにくいというお方です。
寛政の改革で有名な松平定信に仕えて全国の文化財を絵に写し取りました。
当時は写真という技術がなかったため、絵による保存は大事なお仕事でした。
文化財とひとくちに言っても、絵や彫刻などさまざま、さらにその中でも多くの派がありますので、谷文晁のような画風を選ばない腕前の絵師は重宝されたことでしょう。たっぷり拝んできました。


◆法善寺◆
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お寺のデータが手元にないのでご紹介の文章はございませぬ。
ここには斎藤長秋三代の墓所があります。
斎藤長秋・縣麻呂・月岑は三代に渡って江戸の地誌や風俗などについて調べ、本にしました。
江戸各所の由来や名所を記した『江戸名所図絵』、江戸の行事を書いた『東都歳時記』、家康入府以来の江戸の事件や出来事などを年表形式にしてあらわした『武江年表』など、当時の姿を考察する一級資料ばかりです。
私は今、『武功年表』にハマっているので、深く頭を下げてきました。


 今回はここまでです。お読みくださりありがとうございました。
 次回はいよいよ寛永寺の墓参の様子をお出しいたします。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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