徳川さんちの十五代:初代・家康その2

 家康の第2回をお送りいたします。
 三河で産まれた家康くん、人質生活を重ね、今川に服従し、武田と対決、織田と手を組み進撃してきたところへ織田が討たれるというハプニング。さて、ここから天下人までどう駆け上がっていったのでしょうか。

 お読み下さる方は続きへお願いします。



<VS秀吉>
 地元へ命からがら逃げ帰った家康は、信長の子・信勝と手を組み、豊臣秀吉と対峙します。
 信長の死によって武田の遺領は空白地帯となり、天正壬午の乱が起こります。家康は北条や上杉、真田などと対立、遺領の一部をもぎ取りました。しかしその後真田ともめ、第一次上田合戦では負けています。
 一方秀吉は、信長亡き後ライバルは柴田勝家でしたが、賤ヶ岳の戦いで勝家を破りました。
 その後も各地で戦を続けますが、小牧・長久手の戦いでは家康が秀吉に勝ちます。勝ったのですが、手を組んでいたはずの信勝が秀吉と講和を結んだことで家康も服従せざるを得なくなります。さらに秀吉の妹・朝日姫を正室に迎えさせられたり、同じく秀吉の母・大政所を人質として寄越されたり、天守閣が出来たばかりの大坂城に呼ばれて秀吉に服従を誓わされたりしました。

 1590(天正十八)年、家康は秀吉の命令で領地を関東へ移されました。これまでの領地五カ国150万石から、関八州250万石へ、100万石加増の大栄転…のはずなのですが、徳川氏と領国の強い結びつきを恐れた秀吉が、それを断ち切らせるために転封を強行したそうです。
 後に日本屈指の城となる江戸城はこの当時、周囲は入江が迫っており、茅は生い茂り、町や侍屋敷もたいしたことなく、西南には広々とした萱の平原がどこまでも続くという素晴らしい田舎の景色でした。ここを家康は頑張って開拓していきます。

 ここまでの家康、ひたすら辛抱、我慢ですね^^;
 人間五十年の時代に四十も過ぎておりますが、領主として粘り強い所を見せております。

<いよいよ天下を手中に>
 天下統一を成し遂げた秀吉は、朝鮮への出兵を画策します。文禄の役・慶長の役です。
 その最中、1598(慶長三)年、秀吉は醍醐の花見を盛大に催した後、八月に没してしまいました。

 秀吉政権の五大老のひとりとなっていたはずの家康は、秀吉の遺命に背き、諸大名との婚姻などを推し進め、残りの五大老や五奉行に詰問されます。しかし家康はそれらを歯牙にもかけず、1600(慶長五)年に関が原の戦いで秀吉の味方軍を打ち破り、天下を我が物としてしまいました。
 関が原の翌年以降、東海道に伝馬制をしき、関東検地、寺中法度の制定、二条城の造営、伏見城の修築、伏見に銀座を作成、江戸城の天下普請などを次々と行っていきます。
 1603(慶長八)年には江戸幕府を開府、征夷大将軍に任ぜられました。二年後には早々に三男の秀忠へ将軍職を譲ってしまいますが、大御所として政務を執り行い続けます。

<晩年>
 1614(慶長十九)年には大坂冬の陣、翌1615(慶長二十)年には大坂夏の陣で豊臣を滅亡に追い込み、伏見から江戸へ銀座を移したり、禁中並公家諸法度や武家諸法度を制定したり、一国一城令を出したりと、家康の晩年は徳川幕府を盤石にするために加速していきます。

 しかし人間、寿命には勝てないものです。
 1616(元和二)年正月、駿府の近くで大好きな鷹狩をした後、鯛の天ぷらをたらふく食べた家康は、その夜ひどい腹痛を起こしてしまいました。ここから寝込むようになり、四月十七日に大往生を遂げました。なお、鯛の天ぷらにあたったのではなく、すでに胃癌が進行していた形跡があるとのことです。

 翌年には東照大権現の神号を受け、神格化されました。最初に祀られた久能山東照宮、改葬された日光東照宮をはじめ、久能山から日光に移されるルート上に作られた東照宮や家康を個人的に崇拝する人たちが作った東照宮など、全国に大小様々な東照宮が点在しています。私も東京都台東区や日野市、中山道などで見たことがあります。もしかしたら皆様のお近くにもあるかもですね(^^)


 次回は家康のシュミや、個人的に目をつけた政策などを書いていきます。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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