徳川さんちの十五代:初代・家康その4

 今回は家康の子どもたちについてです。
 が、十一男を一回でまとめきることが出来なかったので、次回も続きます。
 長男・信康から五男・信吉までをお届けいたします。
 お読みくださる方は続きへお願いします。



<長男・信康>
 信康は弱冠二十歳で母の築山殿(瀬名姫)とともに自害に追い込まれました。
 理由はいろいろと言われています。
 妻となった徳姫(織田信長の娘)が、母の築山殿(今川義元の姪)と不仲で、良く言えば戦国の気骨ある猛々しい性格・悪く言えば粗暴な性格の信康とも不仲で、さらに築山殿が今川と同盟関係にあった武田と内通していたので、その他もろもろ12か条をしたためて信長パパにチクったとか。
 信長が、自分の嫡男・信忠と、家康の嫡男・信康を比べて「信康ヤベエ」と思って、難癖つけて自害に追い込んだとか。
 家康が信康を嫌っていて、信康が自分に対し逆心があるのでどうしようと信長に相談し、「好きに処分すればいいじゃない」と言われたので処断を決めたとか。

 どの説も証拠が薄く、今のところ確定要素はないようです。
 もし信康が粗暴な性格だった場合、それを厭わしく思った周囲が陥れたことになります。
 そうでない性格だった場合、難しいですね、どうして自害せざるを得なかったのか。うーん、まあ、魔王の命令には逆らえないしなあ…。
 どちらにしろ、まだ二十歳という若さでこんなことになってしまったのには疑問が残ります。

<次男・秀康>
 秀康は側室・お万の方の子で、家康が小牧・長久手の戦いで秀吉に勝ちながらも講和を結んだ際、人質代わりに秀吉へ養子に出されました。
 しかし、秀吉に実子である鶴松(後に三歳で死去)が誕生すると、翌年に下総の結城氏へ養子に出されます。
 結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名門の家で、秀吉はこの縁組を、家康の関東平定への褒美と考えていたそうです。
 その後、下野から越後へ加増移封となりますが、34歳で死去しました。梅毒の可能性が高いそうです。
 性格は剛毅で腕っ節も強く、武将としての器量は充分だったとのこと。
 また、天下三名槍のひとつ「御手杵」や、石田三成が所有していた「石田正宗」も所持していたとか。

<三男・秀忠>
 二代将軍となりますので、詳細はその時に。

<四男・忠吉>
 すみません、読み方「ただきち」だと思っていました。正しくは「ただよし」です。
 三男・秀忠と母を同じくする弟で、井伊直政の娘婿になります。
 関ヶ原の戦いが初陣で、島津豊久を討ち取るなどのドリフターズな功績を上げ(アニメ二期待ってます)、関ヶ原後広島に転封した福島正則の領地である清洲・尾張など四十二万石を領しました。
 しかし、関ヶ原で受けた傷がもとで28歳で死去。子がなかったために、清洲は弟の義直が継ぎます。

<五男・信吉>
 母は武田家家臣の娘で、元服して武田の名跡を継ぎますが、父・家康の関東移封とともに下総へ移り、松平姓に復します。
 関が原の戦いでは江戸城にて留守居役を務め、その二年後に水戸25万石を拝領。しかしながらその翌年、本来病弱であり、疥癬(皮膚病のひとつ)にて21歳で亡くなりました。こちらも子がなかったため、水戸は弟の頼宣と頼房が継ぎます。


 長男から五男までは、比較的若い時期に亡くなっていますね。死因は様々ですが、病気にかかると弱いようです。
 ここまでお読みくださりありがとうございました。
 次回は家康の六男以下について書かせていただきます。


コメント

非公開コメント

web拍手
pixiv
ブクログ
カテゴリ
プロフィール

小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

QRコード
QR
リンク
検索フォーム