徳川さんちの十五代:初代・家康その5

 前回に続き、家康の子どもたちを六男から十一男までお届けいたします。
 御三家も出てきますのでどうぞお楽しみに。
 だらだら長いですが、お読みくださる方は続きへお願いします。

<六男・忠輝>
 忠輝もなかなかなエピソードを持つ人物です。
 母の茶阿局は身分こそ低かったのですが、大変な美人で頭も良かったようです。鋳物師の後妻となっていましたが、代官が横恋慕して夫を殺害してしまいます。茶阿局は夫の敵討ちのために、鷹狩に来ていた家康に直訴し、代官を処罰に追い込みました。しかし家康に拉致られ(え)、側室となりました。
 そこまでして連れてきた茶阿局との間に誕生した忠輝は、七歳で武蔵深谷城一万石、十歳で下総佐倉藩四万石、信濃国内十四万石を経て、十八歳で越後福島藩七十五万石を任され、伊達政宗の娘・五郎八姫を正室としました。

 さらに新しい城・高田城を天下普請のもとに築城してもらうなど、一見順調なように見える忠輝ですが、大坂夏の陣で大坂へ向かう途中、秀忠が派遣した旗本ふたりを成敗してしまいました。
 成敗した理由は、旗本たちが忠輝の軍を追い越したことだそうです。当時の軍法では追い越しは禁止なので、忠輝が行った成敗は正しいのですが、忠輝は何故か秀忠からの犯人差し出しの命令に従いませんでした。
 結局、家康の死後(大阪夏の陣の翌年)、家康の遺言として忠輝はお取り潰しとなり、伊勢朝熊へ配流とされてしまいます。飛騨高山、信濃諏訪と流されながらも九十二歳まで生き、兄弟姉妹の中ではもっとも長寿を保ったそうです。

 忠輝も長男(長兄)・信康同様、猛々しい性格であったせいか、家康には嫌われていたとの説もあります。
 生まれてすぐ、「こいつの顔は兄貴の信康そっくりでヤダなあ」と家康に言われ、六歳まで面会していなかったり、家康が死の床にあった際、忠輝が駿府まで馳せ参じているのにもかかわらず面会を拒否されました。
 大阪夏の陣までの出世や、信長・秀吉・家康といった天下人の間を渡り歩いた「野風の笛」を家康が茶阿局を通じて忠輝に渡したというエピソードから、そこまで嫌われていなかったのではないかとも言われていますが、真相は明らかになっていません。


<七男・松千代><八男・仙千代>
 ふたりとも夭逝。

<九男・義直>※御三家・尾張
 家康の側室・相応院の子で、弟の頼宣(十男)・頼房(十一男)とともに家康のもとで育てられました。
 三歳で甲府藩主になりますが、四男の忠吉お兄ちゃんが亡くなった後、元和二(1616)年に八歳で尾張清洲を任され、新田開発・税制改革などを行い、尾張藩六十二万石の基礎を築きました。
 十歳の時に名古屋城を天下普請で築城、十四歳で大阪冬の陣、十五歳で大阪夏の陣に参戦し、五十一歳で亡くなっています。

 家康の子どもという矜持が強く、おじいちゃん大好きっ子の家光とは折り合いが悪かったようです。
 家光が病にかかった際、義直は大軍を率いて江戸に押しかけました。義直は「将軍が病にかかったと知れたら江戸は混乱するだろうし、どこから誰が狙ってくるかわからない。将軍をお守りするために来た」と言ったらしいのですが、家光や幕府側は義直が将軍の座を狙いに来たのではと恐れたそうです。

 また、藩命を「王命に従って催さざること」とするほど尊王思想も強く、大政奉還後に新政府側へつくなど、幕末まで藩の思想に影響を与え続けました。


<十男・頼宣>※御三家・紀州
 三男・秀忠と母を同じくし、二歳で水戸二十万石(後に二十五万石へ加増)を与えられ、駿河・遠江五十万石
を経て紀州五十五万五千石を収めます。家康には大変可愛がられ、家康が最後まで手元において養育したのが頼宣だったそうです。

 頼宣も義直のように領地改革に励み、和歌山城の修築や城下町の整備、藩法の制定などを行いました。
 紀州に移る際に多くの浪人を召し抱えたり、有能な人材を積極的に登用したことから、人を集めて幕府に対抗しようとしたのではないかと疑いをかけられることもあったようです。

 疑いと言えばもっと酷いのがあり、慶安四(1651)年に軍学者の由比正雪が幕府転覆を狙った慶安の変で、由井が頼宣の印のある文書を偽造しており、謀反の疑いをかけられました。幕府に召し出された頼宣は「俺がそんなことするわけないだろ」と嫌疑を晴らしましたが、十年ほど紀州には戻れなかったとの話もあります。

 他の兄弟にもちらほら見られるように、戦国武将的な剛毅な性格だったそうです。
 七十歳で没し、子孫の吉宗は五代将軍、家茂は十四代将軍となりました。おそらく孫の吉宗あたりは頼宣の血を濃く受け継いでいるのではないかと想像します。


<十一男・頼房>※御三家・水戸
 頼房も頼宣と同じく秀忠と同母で、二歳で常陸下妻藩十万石、頼宣が転出した後の水戸藩二十五万石(後に二十八万石)を任されました。駿府で家康に育てられている時、家康が「望みはあるか」と聞くと「天下」と答え、謀反を企まれちゃお父さん困っちゃうなと思った家康に領地を半分にされたというエピソードもあります。

 約五十年に渡り水戸藩主の座にありましたが、家光と一つしか歳が違わないため、学友として江戸住みとされていました。秀忠の時代は水戸と江戸を往復し、家光の時代は江戸に居ることが多く、長く家光のよき相談相手となり「副将軍」と称されました。

 五十九歳で没し、跡を継いだのがご存知水戸光圀。十一男十五女と多くの子どもに恵まれ、子孫の斉昭は幕末の政治に深く関わり、斉昭の子・慶喜は一橋家へ養子に行った後、十五代将軍に就任しています。


 こうしてみると、家康が手元で養育した三人は御三家となっており、そうでない兄弟たちはアラクレだったようですね^^; そこは家康が見抜いていたのか、結果としてそうなったのか。家康の子どもたちは秀忠以外注目されることが少ないですが、面白い人物が多いです。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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