徳川さんちの十五代:初代・家康その6

 今回は家康こぼれ話です。
 前回までに収録しそびれた内容や、補足事項などを書かせていただきました。影武者伝説とか。
 お読みくださる方は続きへお願いします。


<家康影武者伝説>
 七十五歳という長命を保った家康ですが、実はある時期から影武者だったという噂があります。

 ひとつは桶狭間の戦いの時。
 当時十九歳だった家康は、今川義元の弱体化によって今川家からの独立を果たしたものの、数年後に不慮の死を遂げてしまい、世良田次郎三郎元信という別人が家康に成り代わったという説です。
 世良田次郎三郎元信がどんな人物だったのかは定かではありませんが、群馬県太田市に世良田という地名があり、そこが松平氏、ひいては徳川氏発祥の地とも言われています。家康のおじいちゃん・清康が「俺んちは世良田が発祥」と称していたそうで。
 家康の長男・信康切腹事件も、影武者の世良田次郎三郎元信が、家康と瀬名姫の子どもである信康を始末し、実子を後継者にしたいがために行ったのではないかという話もあります。

 もうひとつは大坂夏の陣の時。
 家康は夏の陣において真田信繁(幸村)に討たれて戦死し、その後の約一年は影武者が務めていたという説。
 家康は五月に行われた夏の陣の翌年の四月に亡くなっていますので、秀忠への完全継承という形で一年間を活用したのなら、影武者の必要もあったかなと。

 埋蔵金のように影武者伝説も真偽の程は不明ですが、考えるのは面白いですねえ。


<妖刀村正は徳川の敵>
 かの有名な“妖刀”村正、徳川家にとっては不吉な言い伝えがあります。

 家康の祖父・清康も父・広忠も家臣に暗殺され、その時の刀が両方とも村正。
 家康の正妻・瀬名姫と、子・信康の自害・解釈の刀が村正。
 家康が関が原の戦いで傷を追ったのも、幼いころに触って怪我をしたのも村正。
 大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が家康に投げつけたのも村正。

 …どんだけだ、村正。

 いえいえ、ほぼ創作だと思われるのですが(苦笑)

 村正自体は、戦国時代に伊勢桑名を中心に活躍した刀工集団で、初代(千子)から3代(7代とも)続いた一派です。
 初代弟の作った「蜻蛉切」は特に有名ですね。止まった蜻蛉がはらりと切れたという話がありますが、他にも村正の刀には、川の流れに立てると、流れてきた葉が当たって真っ二つに切れたといいます。それだけ切れ味がよかったという見立てでしょう。とにかく評判はよかったようですね。

 幕末にも倒幕派の志士たちが村正を求め、徳川幕府を倒そうと息巻いていたそうで。
 切れ味と伝説で人を引きつける妖刀だったということです。


<お母さんのお寺・伝通院の塔頭は新選組にも馴染みの場所>
 東京都文京区の伝通院には、家康の母・於大の方のお墓があります。於大の方の法名から伝通院と名付けられました。
 この前初めて参拝してきたのですが、静かで落ち着いたお寺さんでした。
 伝通院山門に向かって左手の道の奥にあった処静院は、新選組の前身である浪士組が集まった場所です。今では処静院の面影は全くありませんが、伝通院の山門は平成二十四年に再建されていますので、浪士組の面々もきっと山門を見上げたはず…と妄想してしまいます(笑)


<アレの薬>
 その3でご紹介した、オットセイのアレを使った薬のことですが、後日談があります。
 江戸時代後期には同じような成分の薬が市販されており、その名も「たけり丸」。あまりにも効能そのまんまの名前で、いやいや、滋養強壮ってことですよね。(;^ω^) 実は現在でも販売されていて、膀胱炎・たたない(何がかはお察しください)・腰痛等に効くらしいです。


 家康に関しては以上です。
 次回は二代将軍・秀忠をお届けいたします。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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