徳川さんちの十五代:二代・秀忠その1

 偉大な初代・家康に続くのは、三男の秀忠です。
 秀忠に関してはよく「地味」「親父の影に隠れがち」といった評価がなされていますが、この人が実直で真面目な跡継ぎでなければ、徳川幕府は基礎を築くこと無く、260年も続かなかったかもしれません。昔から聞く話ですけど、2代目には2代目のプレッシャーがあるようですからね。そう考えると秀忠も意外とすごかったんじゃあないかと思います。

◆簡易プロフィール◆
生年:1579年(天正七年四月七日)
没年:1632年(寛永九年一月二十四日)
享年:54歳
将軍在位:18年3ヶ月
身長:160.0cm
血液型:O型の可能性が高い

 続きに秀忠の生涯を格納いたします。
 お読みくださる方は続きへお願いします。



<子供時代>
 秀忠は遠江の浜松城にて、家康の三男として生まれました。母は家康の側室・西郷局です。
 上に二人のお兄さんがいたのですが、長兄・松平信康は、秀忠が生まれたこの歳に二十歳で切腹させられています((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

 京都の聚楽第にて12歳で元服すると、秀吉の養女・小姫と祝言をあげました。
 この小姫という人物は、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の娘です。
 しかし、本能寺の変以後同盟関係を保っていたはずの信雄と秀吉の関係が次第に悪化し、秀忠と小姫は離縁させられてしまいました。


<青年時代>
 そして1595(文禄四)年、19歳であの姫と再婚します。
 浅井長政とお市の方の次女で、秀吉の養女・お江です。
 ちなみにお江は3度目の結婚でした。
 二年後には長女の千姫が誕生します。たった七歳での豊臣秀頼との縁組は有名な話ですね。
 この千姫が生まれた年、秀忠は鷹狩をしている最中に具合が悪くなってしまいます。疱瘡(天然痘)にかかったようです。疱瘡は当時治療法のない死の病でした。この後将軍たちを度々襲いますので、その都度書いていきますね。

 と、この辺までは秀吉が存命だったので徳川一族に派手な動きは見られないのですが、1598年に秀吉が亡くなると徳川は途端にトップへと躍り出ます。秀忠もその波に巻き込まれることとなります。
 1600年には関ヶ原の戦いに参加しようと東山道を進軍、上田で真田に足止めをくらい、戦いには参加出来なかった、戦いの後、家康が怒りまくって秀忠に会おうとしなかったというのも秀忠のエピソードとしては必ず出てきます。
 が、この話、本当にそう秀忠を評価していいものなのでしょうか。家康はこれまで戦を何度も経験していますから、遠い場所から敵地を通り抜けて来る秀忠が遅れてくる可能性ぐらい折り込み済みではなかったのでしょうか。


<将軍時代>
 そんなこんなで五年後の1605年、秀忠は家康から将軍の地位を譲り受けます。27歳の時です。
 とは言っても、バックに家康がいる大御所政治です。
 直轄領オンリーから全国規模へ展開したキリスト教の禁止、豊臣氏を滅亡に追い込んだ大坂冬の陣・夏の陣、武家諸法度で全国39家の改易、一国一城令の発布、箱根関書の開設、天下普請による江戸城や名古屋城などの造営等を、家康パパとともに実施していきました。

 夏の陣の翌年、1616年。家康が死去し、いよいよ秀忠が独り立ちをします。
 1620年には五女の和子を、後水尾天皇の中宮に送り込み、朝廷との絆を強くしました。

<大御所時代>
 しかし、独り立ちしてからわずか七年後の1623(元和九)年、次男の家光へと早々に将軍職を譲ってしまいます。
 が、父親同様、隠居はすれども実権を握り、大御所として政治を続けていきます。
 1627(寛永四)年には紫衣事件が起こりました。朝廷が僧や尼さんに尊さを表す紫色の法衣を与えておカネをもらっていたのですが、幕府はその行為を禁止し、反発してきた者たちを島流しにしたという事件です。朝廷や公家は、権威はあれどおカネがないので、権威付けや書などで小金を稼いでいたそうです。幕府側としては収入が増えると朝廷が勢力を盛り返す危険があるので、こういったお小遣い稼ぎは困るわけですね。また、朝廷と寺院勢力との繋がりを断つ目的もあったそうです。

 天下を平らかにするための時代に生まれてきた秀忠ですが、1631(寛永八)年の正月から、食欲不振に悩まされるようになりました。三月、六月には腹痛を起こし、七月にやっと気分が良くなって江戸城内の紅葉山(東照宮が置かれ、後に歴代将軍のお墓も作られた)を参拝できるようになったと思いきや、帰り道で差込を起こしてしまいます。
 七月には秀忠の病状が公になり、朝廷から見舞いの使者が来たり、京都五山の僧たちは病気平癒を祈願するよう命ぜられました。

 八月にいったん鎮静しましたが、九月には癪、便秘で腹部が腫れ、体は痩せて足がむくみ、十一月に血を吐いて、年の暮にはとうとう危篤状態に陥ります。
 そして年が明け、年賀の行事をこなせないまま憔悴していき、一月二十四日、息を引き取りました。


 秀忠の生涯に関して、今回はとりあえずさらっとご紹介してみました。
 次回は徳川幕府の基礎固めをした秀忠を、さらにズームアップしていきます。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。


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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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