徳川さんちの十五代:ニ代・秀忠その2

 毎度ながらお時間頂きまして申し訳ありませんm(_ _)m
 秀忠2回目は、彼の人となりや時代背景などをクローズアップしてみました。
 秀忠くん、意外といいガタイしていたらしいです(笑)
 お読みくださるかたは続きへお願いします。



<秀忠くんの人となり>
 散々地味地味言ってきた秀忠ですが、いったいどのような人物だったのでしょうか。

 年表から読み取れる限りでは、真田と戦っていて関が原の戦いに遅参した秀忠は、激おこの家康パパに対し、特に言い訳や反抗した形跡もないようです。この話にもいろいろな解釈がありますが、家臣の必死な執り成しもあり、関が原の戦いの12日後には家康パパとともに大坂城西の丸に入って、豊臣秀頼と会見したりしています。将軍職を譲られた後も家康の大御所政治が続き、それにも反対した感じでもなさそうです。

 また、織田信長の妹・市の娘で秀吉の養女となったお江と再婚し、お江が怖くて側室を持たなかったとの話もありますね。でも、相手は織田の血を引く豊臣の養女ですからね。秀忠も邪険には出来なかったと思います。

 家康の側近で秀忠付の家老だった大久保忠隣は秀忠のことを、
 「これからの平和な時代を治める将軍に必要なのは、武よりも文の徳。秀忠様は人徳も兼ね備えていらっしゃる」
 と評しています。
 側近だから秀忠を悪く言うことはないと思いますが、それにしても褒めてますねえ(笑)

 体格は、遺体を調査してみると、肉体的にも筋肉の発達がよく、充分に鍛錬されていた体だったようです。
 家康と同じく鷹狩をよく行ったそうですし、ついでに腕の毛やスネ毛も見よい黒々、当時の平均より背も高かったので、かなり男らしい見目だったと想像出来ます。実は威厳に満ち満ちた外見だったのではないでしょうか。

 三男の秀忠が将軍に選ばれたのは、長男の信康は秀忠が生まれた年に切腹させられているし、次男の秀康は他家へ養子に出ています。四男の忠吉は秀忠が将軍に選ばれた年からデキモノに悩まされ、二年後に亡くなってしまいます。ちなみに忠吉が亡くなった年に秀康も亡くなりました。五男の武田信吉は秀忠の将軍就任前に亡くなっているし、六男以下は幼少。結果としては、家康の子でちょうどいいお年頃の男子の中で将軍職を継げるのは秀忠しかいなかったことになります。元気で素直が一番だということでしょうか。何だか秀忠くんがすごくいい子に思えてきた(笑)

 いやーしかし…十一人も後継者候補がいたら、誰が将軍を継ぐかでいろいろあったでしょうね。秀忠の兄たちはそれぞれ事情があったものの、勢力を伸ばす父親の跡を継ぐことは考えていたでしょうし。弟たちも、「秀忠お兄ちゃんが倒れたら次は…」ぐらいには思っていたかもしれません。


<秀忠の江戸づくり>
 家康が亡くなってからは、江戸吉原に遊郭や、浅草に巨大な米蔵(約12万平方メートル)が、日本橋に魚市場を作ったり、神田川の開削や流れの変更、利根川の大改修など、江戸やその近郊を整備するのに集中しました。

 江戸以外では名古屋等で天下普請を行いましたが、大坂城の石垣工事でも西国の諸大名に助力を頼み、財を消耗させて力を削ぎました。


<外交とキリシタン弾圧>
 家光に将軍を譲った翌年には、スペインの貿易要請を拒否し、さらにルソンとの間の国交を断絶。だんだんと限定外交へ傾いていきます。
 キリシタンへの弾圧も厳しさを増していき、長崎で55名、秋田で109名が処刑された年もありました。
 儒学者の林羅山はキリスト教徒と激論を交わしたことがあるのだとか。日本人のイエズス会士ハビアン(イソップ物語を翻訳)は天動説と地球球体説を熱心に説いていましたが、羅山はまったく信じず、二人の話は平行線に終わったそうです。現在はハビアンの説は両方とも正しいとわかっているものの、当時は受け入れられなかったでしょう。


<朝廷、必死の抵抗>
 秀忠は朝廷の力を押さえ込もうとしていたように思えます。
 5女の和子を後水尾天皇の中宮として送り込んだり、禁中並公家諸法度を発したり、私邸である二条城へ天皇を行幸させたり、前回の更新でお伝えしたように朝廷が僧に尊い紫色の衣を授与しておカネをとっていたのを幕府が禁止したという紫衣事件を起こしたりして、徳川の栄光を見せつけました。
 しかし、朝廷も黙ってはおりません。3代将軍の乳母となった春日局が朝廷と幕府の関係の改善を図るため、後水尾天皇に謁見します。ところが関係改善どころか、「無位無官の武家の召使がきやがった」と不快感をあらわにしたそうです。
 そして春日局参内の約ひと月後、後水尾天皇は突然退位を表明し、後を女一宮に継がせ、明正天皇とさせました。まさかの譲位による抵抗とは/(^o^)\
 時の権力者は天皇を取り込もうとすることが倣いですが、これじゃあマウンティングも過ぎるというもの。後水尾天皇の気持ちもわからないでもありません。以降、朝廷と幕府の関係は冷えきり、幕末にはその隙間につけ込んだ雄藩が台頭してくることになります。


<管理人の個人的な注目点・国絵図>
 まず秀忠が就任した年に、幕府は各地を治める諸大名に「国絵図」つまり領地の地図を提出させます。
 国絵図自体は豊臣秀吉の時代からあり、税収のため石高を記す帳面とともに、権力者へ提出されていました。徳川幕府は正副2枚の国絵図を作らせ、1枚は実務用、もう1枚は江戸城内の紅葉山文庫に保管していたそうです。また、それとは別に、各地の統治者も地図を所有していました。
 実測図ではないので数値的な正しさには欠けますが、方位や地形はかなり精度が高かったようです。皆様も時々目にされるかと思いますが、道路や河川、山、海岸線なども細かく描かれていて、今見ても「あーこの土地、こんな形してるし、山とか川とかの位置もだいたい合ってる」となりますよね。公用に使うとなればあれだけのクオリティなのも納得です。


 今回の更新はここまでです。
 次回は秀忠のこどもたちについて書かせていただきます。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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