徳川さんちの十五代:ニ代・秀忠その4

毎度ながらお待たせいたしました。
面白い人物がてんこ盛りの秀忠の子どもたち後編、お読みくださる方は続きへお願いします。


◆四女・初姫◆
 正室・お江との子。出雲松江藩主・京極忠高の妻。
 忠高の父は京極高次で、その正室はお江の姉・お初です。つまりお初と初姫は伯母と姪の関係であり、お名前が一緒なんですね。
 忠高は高次と妾の子で、お初の実子ではありませんでした。そこでお初の妹であるお江の娘を養女とし、忠高と娶せることで、血筋を保とうとしたようです。

 しかし忠高と初の夫婦仲は悪く、子どもも出来ませんでした。
 それどころか29歳で初姫が亡くなった時、忠高は外出していて看取ることもしなかったそうです。
 初姫は小石川伝通院に葬られ、葬儀には京極氏の立会が許されなかったことからも、忠高と初姫の仲は相当悪かったと考えられています。

 その後の京極氏は、跡継ぎがいないまま忠高が亡くなると改易されかけますが、過去の京極氏の徳川への忠義を鑑み、甥が播磨龍野に所領を与えられて存続することになりました。


◆次男・家光◆
 正室・お江との子。乳母はあの春日局。
 詳しくは三代将軍の回で。


◆三男・忠長◆
 正室・お江との子。
 幼い頃は利発で愛らしく、父母の覚えもめでたく、次期将軍は病弱で小心者だった家光ではなく、忠長とも言われていました。
 しかし、家光の乳母・春日局が家康に駿河まで凸して家光の将軍継嗣を訴えたため、家康の気持ち一つで将軍の座は家光のものとなりました。

 甲府23万石を拝領して甲府藩主となり、織田信長の曾孫と婚姻、駿河と遠江の一部も与えられ、55万石の大名となりました。弟の保科正之には家康の遺品を与えたり、松平姓への復姓を進めたりと、世話を焼いたこともあったようです。

 ところがある日突然乱心し、家臣を手打ちにしてしまいました。この乱心の影には、領国内の神社の神獣である野猿を1240頭あまりも捕獲したためたたられたとも言われているようですが、そもそも神獣とされている動物を捕獲すること自体がご乱心ではないかと思います(・_・;)

 父・秀忠の臨終にも拝謁を禁止され、所領すべてを没収の上、上野国高崎へ逼塞処分とされました。そのまま高崎の大信寺にて自刃、28歳の人生を閉じました。
 大信寺には今もお墓があり、自刃の際に用いた短刀や、千姫が供養のために寄進した葵の紋付き硯箱などが大切に保管されているそうです。


◆五女・和子◆
 正室・お江との子。後水尾天皇の妻。

 昔むかし徳川家に、和子という珠のようにかわいらしい女の子が生まれました。
 おじいちゃんの家康は、
 「よし、この子は天皇の女御にしよう!」
 と息巻き、お父さんの秀忠もお母さんのお江も同意しました。

 数々の教育を受けた和子は14歳で、25歳の後水尾天皇に嫁ぎました。
 しかしその道のりは決して平坦なものではありませんでした。
 大坂の陣やおじいちゃん・家康の死去、後水尾天皇の父・後陽成院の崩御、後水尾天皇と寵愛の女官の間に男児誕生など、様々な出来事がありました。

 それらを(時には徳川家が力ずくで)排除し、和子は入内しました。
 入内には総額60万石がかかったとも言われ、徳川家の威信をかけた大事業でした。
 いわゆるいわゆる花嫁行列は相当きらびやかだったようで、入内の様子を描いた屏風によると、屋根に葵の御紋が散りばめられた黒塗りの牛車や、公家姿で供奉する武士などが見て取れます。
 また、後水尾天皇や近親者におカネや時服などを献上したそうですが、「少ねーんだよ」と公家がボヤいた日記が残っているそうです。

 夫の後水尾天皇は気の強いお方だったようです。
 秀忠の記事その1で紫衣事件について書き、その2でも朝廷が必死の抵抗をしたことについて書きましたが、イケイケの徳川幕府に従うようなタマではありませんでした。最高に勢いのある時代の徳川家に対して従順になるか反発するかしかないかとは思いますが^^;

 和子はそんな天皇・朝廷と徳川幕府の間で可能な限り立ち回ったとも、気苦労に振り回されたとも言われています。
 子どもの頃から入内計画があっただけあり、茶の湯や芸術などの文化にも詳しく、後水尾天皇や娘の明正天皇が中心となった寛永文化の形成にも携わったそうです。


◆四男・保科正之◆
 我らが京都守護職・松平容保公の会津藩初代藩主でありますヽ(=´▽`=)ノ
 そして三代将軍家光・四代将軍家綱を補佐した名君です。

 母は秀忠の乳母の侍女・お静。
 他の兄姉は皆、秀忠とお江の子でありますが、正之だけ母が違います。
 一説によると鷹狩の際にチョメしたらしいですφ(..)
 生まれた正之は、母のお静が秀忠の側室ではなかったため、武田信玄の次女・見性院と六女・信松尼に預けられました。

 なぜ信玄の娘がここで出てくるかというと、以下のようになります。
 見性院は武田家臣の穴山家に嫁ぎましたが、夫が本能寺の変で、実子が疱瘡で相次いで亡くなってしまいました。穴山家には家康の五男・信吉が入り、見性院が信吉の養育に当たることになりました。しかし信吉も若くして病死し、穴山家は断絶。見性院は家康や秀忠の庇護を受け、江戸田安門内の屋敷に住んでいました。

 その見性院と信松尼(こちらは八王子在住)に、正之は養育されたのです。
 家康の孫として生まれ、名門武田家に育てられる…すごくないですか。

 さらに見性院から、旧武田家家臣の信州高遠藩主・保科正光へと預けられました。
 後に21歳で高遠藩主を継ぎ、26歳で出羽山形を拝領、陸奥会津へと移ったのは33歳、1643(寛永二十)年のことです。

 学問に優れた質であったらしく、政治では幕政を助け、殉死の禁止や末期養子の禁の緩和を行ないました。また、玉川上水開削、明暦の大火後の救済、江戸城天守閣再建禁止、江戸府内の整備などにも尽力しています。

 朱子学には相当傾倒しており、朱子学以外の学問を排除したり、朱子学に批判的な者を流罪にもしたとのことです。
 同時に神道にも熱心でした。
 会津には正之を祀った「土津神社」があるのですが、これは正之の神号にちなんだものであり、「土」は宇宙万物の根本原理を表し、「津」は会津のことで、「宇宙の万物を極めた会津藩主」という意味なのだそうです。

 藩内の経済にも着手し、産業の奨励や流通の整備をしました。
 藩士の教育としては、藩校「日新館」につながる稽古堂を設けました。
 日進館は再現の建物が会津にあり、学び舎や水練用の池、孔子堂などを見ることが出来ます。
 藩校マニアとしてはすごく楽しいところです(笑)

 義理堅い性格でもあり、養子に行った保科家の名字をずっと名乗っていました。
 幕府からは松平姓を名乗るよう言われていたのですが、二代目までは保科を名乗り続け、三代目でやっと松平を称することとなりました。

 そして、残した家訓は幕末まで引き継がれ、九代目藩主・容保公の運命を決定づけました。


 次回は家光その1になります。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。


コメント

非公開コメント

web拍手
コヤマライヴジム
ブクログ
カテゴリ
プロフィール

小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

QRコード
QR
リンク
検索フォーム