徳川さんちの十五代:三代・家光 その1

 はい、三代目は家光くんです。
 「余は生まれながらの将軍である」「家康おじいちゃん大好きすぐる」「大奥時代」などのきらびやかなキーワードが並びますが、ホントはそんなこと言ってない? 実は病弱で根暗なお坊ちゃまだった? などなどを数回に分けてお届けしていきます。

◆簡易プロフィール◆
生年:1604年(慶長九年七月十七日)
没年:1651年(慶安四年四月二十日)
享年:48歳
将軍在位:27年9ヶ月
身長:157.0cm
一言:「さんまは目黒」

お読みくださる方は続きへお願いします。



<薄暗い?子ども時代>
 父は秀忠、母はお江の間の次男として生まれました。
 が、生来病弱で吃音障害だった可能性もあり、そのせいか小心で無口だったようです。
 周囲からは愚鈍な子どもだと思われ、両親すらも、利発で愛くるしい2歳年下の弟・忠長を可愛がりました。
 時期将軍は、兄の家光ではなく弟の忠長にという声も…。
 父母が弟ばかりを可愛がり、将軍の地位すらもあやうい。この時の家光の心情やいかに。


<春日局、走る>
 己の境遇を嘆いた家光は、十二歳の時に自殺を図ったそうです。
 その真偽は不明ですが、そこで立ち上がったのが、乳母である春日局(お福)。
 家光を幼少の頃から可愛がり育ててきた春日局は居てもたってもいられなくなり、伊勢参りを口実に江戸城を脱出。
 駿府で大御所政治を行っていた家康の元へ駆け込み、長幼の序に従って家光を将軍とするよう願い出ました。

 そこで家康は鷹狩の際、江戸へ下向します。
 家光だけを手元に呼び寄せ、「忠長、オメーはダメだ」と、家光の優位をアピール。
 大御所家康自ら、跡継ぎは家光と周囲に知らしめたのでした。


<傾く家光>
 家光は十七歳で元服しますが、ちょうどその頃、江戸では歌舞伎が大流行。
 家光も衣装や髪型、化粧などに凝り、歌舞伎踊りを踊りまくりました。
 見かねた守役が三人がかりで大説教し、やっと改まったそうです。
 加担した人たちが周りに居たはずですよね。やり過ぎる前に止めて差し上げろ(苦笑)


<三代将軍継承>
 19歳で将軍を継ぎ、翌年には前関白鷹司信房の娘・孝子を正室に迎えます。
 しばらくは秀忠の大御所政治が続き、日本橋魚市場の整備、上野寛永寺建立、後水尾天皇の二条城行幸、富士山の噴火や江戸の大地震などがありました。
 秀忠が1632年に没した後は、
・人事の若返り、役職制の導入
・上洛して後水尾上皇と会見(この後幕末まで将軍の上洛はナシ)
・武家諸法度の制定
・江戸城の大修築
・日光東照宮の大改築工事による本殿・陽明門の完成
・欧州との貿易を限定する一方で、朝鮮からは通信使を迎え入れる
・キリシタンの弾圧(島原の乱など)
 などを行い、徳川家による日本国内の基礎固めを終えました。


 次回は家光の病弱っぷりについてスポットを当てていきたいと思います。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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