徳川さんちの十五代:三代・家光その3

 今回は、家光の時代の政治などについてです。
 お読みくださる方は続きへお願いします。



<武家諸法度改定・参勤交代>
 秀忠の時代に発布された武家諸法度、幾度となく変更が加えられますが、家光の時代にも大きな改定が行われます。
 時代は武断政治から文治政治へと傾いていき、大名は領地内の内乱を沈めるのにも幕府の命令がなければ軍隊を出撃させることが出来なくなりました。

 参勤交代が制度化されたのも家光の時代です。
 それまでも大名が参勤することはありましたが、在府を1年、交代は毎年四月と明文化されました(ただしこの後も何度か見直されています)。これにより、各大名がものっすごくおカネを使わされたことは有名ですね。

 また、同時に500石積み以上の大船の建造禁止も発表されました。
 幕府の威信をかけた大船「安宅丸」が新造され、それ以上の船を作られたくなかったためと見られています。


<江戸城惣構の完成>
 家康の時代から三代・30年かけて造られてきた江戸城の惣構が完成したのもこの時代です。
 まずは市街拡張、続けて江戸城の拡張、本丸御殿・二の丸・三の丸・石垣などの築造、改築、外郭修築工事などが天下普請で行われ、今なお残る堂々とした総構が完成しました。

 石垣には西国・四国・中国の大名が、土塁や堀には関東・奥羽の大名が当てられ、二の丸庭園には造園の名手・小堀遠州が割り振られておりますヽ(=´▽`=)ノ 小堀遠州めっちゃ好きですわ〜。


<海外との超限定貿易>
 家康の時代に広げた海外との貿易ですが、秀忠から縮小傾向にあり、家光のときにはいわゆる「鎖国」状態になりました。
 日本人の海外渡航・帰国を禁止し、ポルトガル船の来航禁止、平戸のオランダ商館を長崎の出島へ移転させました。以降、幕末に至るまでオランダ船の発着や船員の居留地は出島のみとされ、「外国人を留置する国立の監獄」とも揶揄されたそうです。


<キリシタン弾圧>
 一番名高いのはキリスト教の弾圧ですね。
 そもそも家康の時代からキリシタン禁令は出されていました。
 語弊があるとは思いますが、家康のブレーンだった“黒衣の宰相”金地院崇伝がキリスト教と侵略的植民地経営の関係を指摘し、「日本は神国」と神国思想に基いてよその宗教を認めない、特に侵略的になる(と思われた)キリスト教はアカンということにしてしまいました。

 家康の時期にはキリシタン大名の高山右近が国外追放になったり、秀忠の時期には長崎で元和大殉教と呼ばれる大虐殺があったりしたのですが、家光の時期と言えば島原の乱でしょう。
 ことの発端は、キリシタンの農民たちが仲間の霊を慰めるために儀式を行っていたのを代官が取り締まろうとしたら、あやまって代官が殺されてしまいました。
 年貢高騰の恨みもあって農民たちはそのまま勢いづき、一揆へと発展。寺社仏閣が焼き払われ、島原城下が放火されたりしました。
 幕府軍は天草四郎を大将として立てこもる原城に攻撃を仕掛け、4ヶ月の攻防の末に一揆を鎮圧。一揆軍3万7000人のほとんどが戦死、処罰されたとのことです。

 しかし、問題視したのはキリスト教だけではありませんでした。
 日蓮宗は、お寺や僧侶が他の宗派からお布施や供養を受けることを拒否し(不受)、逆に他の宗派へのお布施や供養も行ってはならない(不施)としていました。ざっくり言うと、他の宗派は邪信仰であり、そんなところからお布施や供養を受け取ることなんか出来るか、という考えがあったそうです。
 秀吉の方広寺大仏供養(1595年)の際、日蓮宗のお寺も供養を命じられましたが、方広寺は天台宗であるため、供養を拒否。日蓮宗内部は上記のような“不受不施派”と、時の権力とも手を携えていこうという“受布施派”に分裂しました。

 さらにこの争いは、秀忠の正室で家光の生母・お江が亡くなった際の供養に受布施派が出仕し、それに対して不受不施派が「なにしてんだコノヤロー」と文句をつけたことで激化しました。
 受布施派は幕府に訴えを起こし、幕府の重職が居並ぶ中、不受不施派と受不施派が対決。結局は受不施派の主張が認められ、将軍家光の名の下、不受不施派の有力僧侶は配流となりました。

 まー、国家権力と宗教の争いは古くからあるもので。
 これらもその一環ということなんだと思います。


<役職制の確立>
 権力が集中するにつれ、また、先週お伝えしたように将軍である家光が病弱だったため、江戸幕府には役職制が敷かれました。
 …と思っていたのですが、実は家康の時からやんわりと役職制はございまして。
 そもそも家康自体が自分の領地を治めていた時に役職制をやっていましたし、将軍ひとりですべての幕政を見切れるわけもありませんものね。分業は当たり前なんです。
 老中・若年寄・三奉行(寺社・勘定・町)等が整備され、トップダウン式だったりボトムアップ式だったりの管理方法が出来上がりました。役職の詳細については長くなるので割愛します(苦笑)。


<大奥>
 大奥とは将軍の正室や側室、その周りの世話をする女中たちが生活する場所です。
 そのはじまりは、男色家で跡継ぎが出来なかった家光のために、乳母の春日局が江戸城内に女性をよりどりみどりに集めたことによる…と言われていますが、家光が元服する2年前に「大奥法度」なるものが出されているので、ちょっと事情が異なるようですね。
 この大奥法度により、これまではっきりしていなかった江戸城の表・中奥・大奥がきっちりと区分され、大奥が正式に誕生しました。

 じゃあ家光とか春日局の話は何だったのか。
 んー、これはたぶん、さっきの話そのまんまだと思うんですよねえ。
 もう少し補足していくと、正室となった鷹司孝子との仲がよくなく、さらに古来からの倣いであった男色を踏襲していた家光は、当然将軍として跡継ぎを心配されるわけです。家光を大プッシュしてきた春日局にとって、これは大変な問題です。そこで多くにいろーんな女性を集め、家光に見繕わせようとした。こんな感じだったのではないかと推察します。

 あと、もう一言下世話を承知で言わせていただきますと、徳川15代将軍のうち、正室から生まれて将軍となったのは、家光ただひとりなんです。あとは父親が将軍でなかったり、側室の子だったりしています。

 それはなぜか。まあ、だいたい将軍の正室は京都のお公家さんから来た誇り高き女性だったりして、正直将軍との縁談なんて嫌だったという面もあるでしょう。

 が、もっとシンプルに、将軍の閨ではよけいな“おねだり”をされないよう、常に聞き耳を立てているお役がいたそうです。ぶっちゃけ、誰かが聞いてるところでイタせるかって話なんじゃあないかと思っています(真顔)。だから鷹狩とかお風呂とか、見張りが薄いところでチョメしちゃって、側室とかお妾とかが子どもをどんどん(でもない人もいるけど)産んだのではないかと。


 書いてみたら意外と長くなったので、今回はここまでです。
 次回は、家光を支えた人物たちをお送りします。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。


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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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