徳川さんちの十五代:三代・家光その5

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今回は家光の子どもたちや、最強の従兄弟・水戸光圀を追っていきたいと思います。
お読みくださる方は続きへお願いします。




◆長女・千代姫◆
 側室のお振の方(自証院)との子。
 父方のひい祖父ちゃんは家康、母方のひいひい祖父ちゃんは石田三成という面白い血筋のおねえさんです。
 一説には、家光が男色傾向にあり女性を受け付けなかったため、春日局が親戚であるお振の方を男装させて大奥に送り込み、家光のお手付きとなったそうで。

 そんな生まれの千代姫は、尾張徳川家2代の光友へと嫁ぎました。
 が、光友が相当なおぼっちゃま気質だったようで、茶・音楽・書道など趣味を多く持ち(大名の“趣味”はおカネがある分とんでもないことになる)、寺社の造営・修築は言うに及ばず、自身の御殿をどっかんどっかん建築したり、側室を11人も持ったり。
 尾張藩は財政難に陥ったそうですから、千代姫も苦労したかと察します。

 千代姫と言えば、彼女が嫁いだ時の調度品が全部で70点も残っており、一括で国宝に指定されています。
 「初音の調度」として展覧会に出ることもあり、私も見たことがあるのですが、とても美しい工芸品の数々です。
 たった3歳で嫁入りをし、贅沢三昧な夫との生活にため息を付きながらも、これらの調度品に慰められたのではないかと思うと、今度初音の調度を見る時はしみじみしていしまいそうです。


◆長男・家綱◆
 4代将軍の項目でご紹介いたします。
 ちょっとだけお話させていただきますと、11歳で将軍職を継がざるを得なくなりますが、儀礼以外のことは何の経験もなく、周囲に支えられながらの在職となります。
 ちなみに家綱の前に男子がひとり生まれていた可能性もあるようですが、証拠らしい証拠が見当たらなかったので、ここでは家綱を長男としておきます。


◆次男・亀松◆
 側室のお玉の方との子。つまり後にご紹介する5代将軍綱吉と同母。
 3歳あるいは5歳で夭折。


◆三男・綱重◆
 はい、この人大事です。
 何故なら綱重の子どもが6代将軍になるからです。

 側室のお夏との子。
 家光が42歳という厄年に生まれました。
 「厄年の子は育たぬ」との迷信から、お夏を家光の姉である千姫の屋敷に移して出産させ、千姫の養子となり養育されました。

 甲府城を与えられ、石高は25万石とも45万石とも言われました。
 石高以前に、将軍が江戸から逃げねばならぬ場合に入る甲府城を任されるとはなかなかなお立場であります。
 本人は甲府に赴いたことはなかったそうですが、甲府にも学問所を建てようとしたり、治水事業を家臣に支持したりしたようです。

 それと、4代将軍で兄の家綱は体が弱く、5代将軍のポストを任されるはずでもありました。
 人物としても威厳があり、頭もよく、人望は高かったようです。
 しかし綱重本人が35歳という若さで家綱より早く亡くなってしまいました。
 死因については、甲府の財政を増やしてもらえるよう幕府に相談したところ、老中の酒井忠清からNGをくらったため、抗議の自害をしたという話も残っていますが、実際の所は不明です。

 亡くなった後は小石川伝通院に埋葬され、子の家宣が将軍になると増上寺へと改葬されました。
 このおかげで昭和の増上寺発掘調査では遺体の検分が行われ、身長は160.0cmと当時の平均身長より3cmほど高かったこと、猫背であったこと、細面であるもののやや丸顔、某イヤミのような反っ歯であったことなどが判明しています。


◆四男・綱吉◆
 側室のお玉の方(桂昌院)との子。マザコン。
 詳しくは5代将軍の項目にて。


◆五男・鶴松◆
 側室のお里佐との子。
 生まれて1年も経たずに夭逝しました。


◆水戸の副将軍・水戸光圀◆
 家康の十一男・頼房の子で、家光より24歳年下です。
 頼房自身が家光の1歳上なだけなので、その子どもである光圀が活躍した時代は家光の時代よりもう少し後なのですが、立場上は従兄弟なのでここに書かせていただきますね。

 母は奥に使える女中で、身分が低かったために側室にはなれませんでした。
 光圀は家臣の家に預けられますが、6歳で世継ぎに認定されます。兄もいるのに何故光圀が世継ぎとなったのかははっきりしていません。家光や、家康の側室・英勝院の意向があったとも伝わっています。

 若い頃の光圀は素行不良で、傅役にもしばしば怒られていたようです(苦笑)
 18歳で司馬遷の『史記』を読むと、内容にビビビときたのか、そこからはそこそこ真面目に生活したとかしなかったとか。

 酒好きで食道楽だったそうです。
 お酒は楽しいのが好きで、食べ物は明の亡命学者からラーメン・餃子・牛肉とニラの炒め物などを教わり、堪能しました。
 ラーメンは日本で初めて光圀が食べたと言われてきて(最近そうではなかったことが報道されましたね)、水戸に行った時に「水戸藩ラーメン」をお土産で買いました。おいしかったです。

 豪快で善政を敷いたイメージのある光圀、実はそうでもなかったようなんです。
 父の代からすでに藩の財政は逼迫していました。表の石高が35万石だったのに対し、28万石しかなく、石高に応じた軍政や儀礼の際にはおカネがたりなかったためです。

 光圀の藩主就任直後に起こった水害にも費用がかかりましたが、光圀が行った有名な事業も金食い虫でした。
 『大日本史』の編纂事業です。
 神武天皇から南北朝統一までの時代を扱った歴史書で、光圀は資料集めに家臣を全国各地へ派遣、多くの学者に協力させました。その費用は年間数万石とも言われています。
 また、蝦夷地の探検のために大船を二艘も造っちゃったのも、当然費用がかさみました。

 これらの費用は民に回され、一時期は八公二民(8割が藩へ、2割が民へ)という信じられない税を課し、従わない者は厳罰に処したそうです。ゆえに、今でも光圀を「黄門さま」と思わない人たちが一部いるとかいないとか。

 江戸に在府し、自藩の政務を行いながら幕府にも口を出していた光圀。
 隠居後は自らも税を支払い、73歳で生涯を閉じました。


 これにて家光のレポートは終了です。
 次回は4代・家綱について書いていきます。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。


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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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