2016年3月 京都・大阪・奈良三都縦断の旅 その17・大坂城その4

santo2016-1-c - 81
今回は、多聞櫓のすぐ西側にある千貫櫓です。
かつて石山本願寺がここにあり、それを攻めた織田信長の軍が苦戦しました。石山合戦です。
当時からこの付近には櫓があり、「あの櫓を落とした者には銭を千貫出しても惜しくはない」
と語っ合たほどの防御地点だったそうです。

本願寺の時代や、その後に大坂城を築城した豊臣秀吉も徳川家も、ここに櫓を建てるのはお約束だったようです。
地形上、有利な防御地点だったんでしょうね。


でっかい写真満載、お読みくださる方は続きへお願いします。



◆千貫櫓へ◆
santo2016-1-c - 101
千貫櫓へ行くには、ちょっと迂回していかねばなりません。


santo2016-1-c - 102
いったん、西の丸庭園に入ります。
西の丸庭園はまた別にご紹介しますね。
当時の建物がないのは寂しいですが、広くて気持ちいいですよー。


◆いざ、中へ◆
santo2016-1-c - 103
何故か入口の写真を撮っていなかったので、いきなり内部ですみません。
懸魚が壁にかかっていますね。
元からそうなのか(その場合火災除け)、展示のためなのかは不明ですが、これほど近くで見られることはあまりないのでラッキーでした(^^)

santo2016-1-c - 105
内室があり、その外側は…

santo2016-1-c - 104
武者走り(廊下)になっています。

santo2016-1-c - 108
たぶんこちらは二階の武者走りの床だったかと…。
のみで滑りにくく加工しているのでしょうか。
一階の床には見られない加工です。


◆千貫櫓からの眺め◆
santo2016-1-c - 106
一階の格子窓からはこう。

santo2016-1-c - 107
銃眼からはこう。

santo2016-1-c - 109
二階の格子窓からはこう。

 いずれの眺めも、大手門へ通じる土橋が丸見えです(*ノェノ)キャー
 一階に控える兵は銃で、二階の兵は銃あるいは弓で、土橋を走ってくる敵を狙い撃ちできます。

 そして、この櫓から土橋までは、最短距離で約57m。
 戦国時代後期の書物によると、当時の和弓の最大有効射程距離は約54m。
 この3mを誤差の範囲内と考えると、土橋と千貫櫓の位置関係は最初から計算されていたことになります。
 火縄銃もだいたいそのぐらいの射程距離だったようなので、攻め手が銃撃してきたとしても、壁のある千貫櫓側が有利と思われます。

santo2016-1-c - 111
火縄銃の模型。
重たかったです。持ち上げるのヨッコイショです。
刀剣とかもそうですけど、カラダが頑丈&持ち方のコツを把握していないと腰悪くする(;^ω^)


◆千貫櫓のプチ情報◆
・織田信長
 信長は石山合戦を制した後、この千貫櫓を甥の織田信澄に預けました。
 2年後に本能寺の変が起きて信長が命を取られると、首謀者である明智光秀の娘を娶っていた信澄は、今の大坂城本丸に当たる場所を預けられていた丹羽長秀に攻撃されました。

・豊臣秀吉
 豊臣時代の大坂城を築城。
 やはりここに櫓を建て、秀吉がここから馬揃えを見たそうです。

・徳川家
 家康は大坂の陣でこの地を制圧。

 秀忠は大坂城落城から5年後の1620(元和六)年に大坂城再築工事をはじめ、千貫櫓もその年に再建されました。これが現在まで残っている千貫櫓です。再建の責任者は、私の大好きな小堀遠州。作庭やお茶に関する才能も有名ですが、桂離宮や二条城の建設・造園にも関わっています。

 また、ここは普段大坂城代の管理下に置かれており、1662(寛文二)年の城代はこの櫓で夕涼みをしたり、配下の役人たちを料理でねぎらったりしていたそうです。

 そもそも将軍が上洛したのは三代目の家光までで、その後は十四代目の家茂まで上洛がなかったものですから、その間は城代もゆる〜く楽しんでいたのかもしれません。
 大坂城に赴任した大名や旗本は、本丸御殿(現存せず)の見事な襖絵を見て回ったという話もありますし。
 うん、私も赴任したら見てみたいと言い出すでしょうね(笑)


santo2016-1-c - 89
次回は3つめの特別公開が行われていた焔硝蔵を見つつ、天守へ近づいていきます。
ここまでお読み下さりありがとうございました。

コメント

非公開コメント

web拍手
コヤマライヴジム
ブクログ
カテゴリ
プロフィール

小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

QRコード
QR
リンク
検索フォーム