2016年3月 京都・大阪・奈良三都縦断の旅 その19・大坂城その6

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本丸に入る前の、桜門。
豊臣時代からありましたが、当時はここより西側にあったそうです。
徳川幕府による1626(寛永三)年大坂城再建時に桜門も立て直されました。
1868(慶應四)年の明治維新の大火で焼失し、現在のものは1887(明治二十)年の再再建です。
こちらも入口が小さいですね。敵は攻めて来ても一気になだれ込むことは出来ません。

更新が遅れてすみません。ちょっと別件(モンハンではない)で気を取られておりました。
でっかい写真満載、お読みくださる方は続きへお願いします。



◆桜門の龍虎石◆
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一枚目の写真で、門の左右に大きな石が配置されているのがご確認いただけると思います。
こちらはそのうち、向かって左側の石です。

門の左右の大きな石は「龍虎石」と呼ばれています。
江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿が浮かび上がったと言われていたそうです。

どういうことなんでしょうね(・・?
石の模様に何か特性があって、雨に濡れるとそれらしい形が浮かび上がるとか?
詳しい人がいたら教えていただきたいですね〜。


◆大坂城イチの巨石 蛸石◆
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写真の左側半分を覆い尽くす石は、桜門を入った枡形の中にあります。

この枡形を建設した備前岡山藩から持ち込まれた花崗岩で、蛸石と呼ばれています。
およそ36畳敷(59.43平方メートル)、重さは約108トンと推定されており、巨石が石垣にこれでもかと使われている大阪城の中でもっとも大きな石であります。

この巨石を擁する石垣の上にも、かつては多聞櫓が設けられていました。
明治維新の大火で燃え落ちてしまったそうです。残念。


◆天守へ◆
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いよいよ天守が目の前に。

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カメラを構えてズームすると、この大きさまで迫ってきます。
でかいでかい(∩´∀`)∩ワーイ

大坂城天守は、
・初代:豊臣秀吉が1585(天正十三)年に完成、大阪夏の陣で焼失。現在よりも東にあった。
・二代目:徳川幕府により1626(寛永三)年に再建。1665(寛文五)年に落雷で焼失。
・三代目:1931(昭和六)年に鉄筋コンクリート造で復活。1995(平成九)年に改修。国の登録有形文化財。
という変遷を辿っております。
なお、現在の外観は豊臣時代のものを参考に造られたそうです。
高さは約54.8メートル。文字通り見上げるような大きさ。

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天守までの途中にあった残念石。
大坂と小豆島の団体が記念に据えたもので、小豆島から運んできたらしいです。
なんでも細川忠興の手になるものだと、解説には書かれています。
忠興が現地に行って、自分で割ってみたのでしょうか。だとしたらスゴイものが置いてあることに(;^ω^)

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あっ、大坂城と言えばよくみる角度だ、と思ってパチリ。

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天守台座の石垣。
石垣も再再建なのか、徳川時代のものなのか…。
とにかくスゴイ積みです(しげしげ)


◆金明水の井戸◆
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豊臣秀吉が水の毒気を抜くために黄金を沈めたと言われておりますが、実際には1624(寛永元)年、徳川幕府によって掘られたものであること、井戸を覆う屋形(写真無くてスミマセン)は1626(寛永三)年に作られた当時のままだそうです。

江戸時代までは黄金水と呼ばれていて、本来の金明水は天守の東側にあったとのこと。
じゃあいつから、どうして金明水って呼ばれるようになったのでしょうね。
お城の係の人に聞けばわかるのかな…φ(..)


◆天保山にあった号砲◆
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1863年に幕府の命令で造られ、天保山の備砲として据えられたもの。
明治維新後に移され、1870(明治三)年から1923~24(大正十二〜三)年頃まで時砲として使われました。
幕末から50年も使われて続け、今もここにいる。長い歴史を眺めてきたんですねえ。


今回のレポートはここまでです。
次回は天守からの眺めをお送りいたします。
ここまでお読み下さりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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