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徳川さんちの十五代:八代・吉宗 その8

 側近には有能な人物が多くいた吉宗ですが、血縁者はどうだったのでしょう。
 彼に大きな影響を与えた父親や、緊縮財政に対抗した徳川宗春などを見てみましょう。
 お読みくださる方は続きへお願いします。




<やり手な父・徳川光貞>
 紀州藩2代藩主。
 初代紀州藩主・徳川頼宣(家康10男)の息子。家康の孫にあたります。
 正室は伏見宮清貞親王の娘、安宮。伏見宮家は南北朝時代の北朝の天皇の血筋で、世襲親王家のうちのひとつ。天皇の血と近いかどうかではなく、親王宣下を受けることで家柄を保つ家です。
 ちなみに伏見宮家からは、8代将軍吉宗も9代将軍家重も正室を迎えており、世襲親王家最古の家柄を大事にしていたようです。

 父の隠居により42歳で藩主を継承。
 寛文七年から元禄十一年までの31年間務めました。
 江戸での火災や、領内である高野山との対立、数年に及ぶ凶作、自分の長男(吉宗の長兄)に綱吉の娘を嫁としてもらう、その際に綱吉を江戸紀州藩邸に迎えるのですが、ド派手な御成御殿を建てるなど、財政は逼迫していました。
 ですが、土地台帳の再作成による年貢の確保、新田開発や用水路、堰の構築などで農地政策を推し進めました。
 当時はコメ経済だったので、コメの収穫量を増やすことで財政を立て直そうと頑張りました。

 このトーチャン、なかなかしたたか者でして。 
 吉宗のことは早くから目をかけていたらしく、三男(吉宗の三兄。次兄は早世)が綱吉に謁見&知行をもらう際に、吉宗も謁見できたり知行をもらえるよう画策したり(長幼の序からすると同時に取り計らわれるのはおかしい)。
 自分が病で公務を行えない際に、長男も江戸に行っていて頼めない時は、次男を飛ばして吉宗に頼んだり。

 おそらく三男が体が弱かったりして、壮健な吉宗に目をつけていたのでしょう。
 あるいは、徳川将軍家の家綱・綱吉の時代だったので、将軍家の世継問題を横目で見ていて、チャンス有りと踏んでいたのかも…とまで思うのは穿ち過ぎですかね?(苦笑)



<真っ向対立・徳川宗春>
 家族内では特に仲が悪かった様子もなく、家臣にも恵まれた吉宗ですが、意外なところに敵がいました。
 尾張藩7代藩主・徳川宗春です。

 宗春は、尾張藩3代藩主・綱誠の20男として生まれました。綱誠は39人の子どもがいたそうです。
 兄には7代将軍になりそこねた&まんじゅうを食べて亡くなってしまった吉道や、吉宗と将軍職を争って敗れた継友がいます。

 始めのうちは吉宗に可愛がられていたらしいのですが、兄・継友の死に伴い7代藩主を継いで江戸から尾張に戻ってくると『温治政要』を配布。吉宗の倹約・法治政治とは真逆の、消費の拡大や法規制の緩和などを自らの政治理念として打ち出しました。それを顕現するかのように、尾張に戻ってくる際、浅黄色の頭巾にべっ甲の笠、衣装は全身黒という異様な出で立ちであったということです。

 芝居小屋の増設・遊郭の許可・商工業の奨励などで名古屋城下は大賑わい。
 吉宗によって締め付けられていた人々のウサを晴らす形になりました。

 しかし、それをいつまでも吉宗が見逃しているわけではありません。
 幕府から詰問を受け、いちおうの方向転換などを行いました。
 が、家臣との対立や藩財政の悪化などもあり、幕府からの命令で隠居謹慎。名古屋城下で幽閉となってしまいした。

 69歳で亡くなりますが、死してなお許されず、天保十(1839)年に許されるまでの75年間、金網がかけられていたということです。

 死してなお金網…よほど許されなかったのか、藩側で恭順の意を示すために自発的にかけていたのか…。
 尾張藩も御三家として将軍を出せる家柄ながら、2度も競り負けたり金網かけられたり、割とひどい扱いを受けているような…。
 エキセントリックな人物も多かったようですけど、不遇な部分も多いように思えます。
 だからこそ幕末に、冷静な目をもって対応したのかもしれませんね。


 次回は、将軍になる前・紀州藩主時代の吉宗を辿っていきたいと思います。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。


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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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