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徳川さんちの十五代:八代・吉宗 その12

 今回は、吉宗の時代に起きた大きな一揆をお届けすることにしました。
 その他の項目を全部まとめてお出ししようと思ったのですが、思ったより多くなってしまったので、今回と次回に分けます。簡潔にまとめる力がほしい(笑)

 お読みくださる方は続きへお願いします。



<起爆剤・質流し禁止令>
質流し禁止令とは、享保七(1722)年に出された土地の法令で、全国に混乱を招いたものです。

そもそも江戸幕府は、寛永二十(1643)年に田畑の永代売買禁止令を出してしました。
ところが、元禄年間の質入れした土地に関する法令において、「期限が来ても質入れした土地が買い戻せいない場合は、そのまま土地を渡す(質流れする)」という文言があり、事実上の永代売買となる質流れが認められることになります。

しかし今回の禁止令では、質流れが永代売買禁止令に反するものであるとして、田畑の質流れを禁止、買い戻しの条件などを細かく設定しました。
これが「借りたお金は返さなくても、質入れした土地は絶対返してもらえる」と拡大解釈され、各地で大混乱。
質地返還を求める農民が一揆を起こしまくり、手を焼いた幕府は翌年にこの法令を撤回しました。
この法令は、下記のような大きな騒動を巻き起こしていくことになります。


<続発した一揆・騒動>
享保七年(1722)年:頸城質地騒動
越後国頸城郡の幕府領で起こった一揆。
上記の「質流し禁止令」により、農民が地主を襲って質地の返還を迫ったり、米を強奪するなどの事件が起きていました。
二年後の享保九年三月、150ヶ村・約2000名が質流れの土地を奪回するため、騒ぎを起こしました。幕府は越後国の幕府領を高田藩などに預け、一揆の鎮圧を命じました(この後も出てくるんですけど、一揆が起きた地元に近い場所でないと、幕府も押さえきれなかったみたいです)。翌年七月、逮捕者106名の処罰をもって、一年以上続いた騒動は終息しました。

享保七年(1722)年:長瀞質地騒動
出羽国村山郡の幕府領で起きた一揆。
質流し禁止令が出たものの、長瀞村の名主は混乱を予見して農民たちに禁止令が出たことを黙っていました。
しかしどこからか禁止令の情報を手に入れた農民たちは質地を取り返そうと名主に強訴、金主の元にも押しかけて借用証文300通以上を奪い返してしまいます。
幕府は近隣の藩に協力を命じてこれを鎮圧し、114名の農民が処罰されました。

享保十一(1726)年:山中一揆
美作国津山藩領で起きた一揆。
藩主が亡くなったことで、藩のお取り潰しや藩地の幕府領化の噂が流れました。
そんな中で藩の役人や大庄屋たちが年貢米や年貢の余り米を公共の蔵から勝手に持ち出し、それに対して農民が蜂起。度重なる年貢の増加への不満もあったそうです。
藩側が武力で鎮圧し、一方的に農民側45名を処刑、後に吟味も行われましたが、さらに6名の処刑者を出してしまいました。

享保十三(1728)年:久留米一揆
筑後国久留米藩領での一揆。
麦や菜種などへの増税を発端に、それまでの税制にも不満をいだいていた農民たちが蜂起しました。
最終的に藩側が折れて、年貢の減免を受け入れ、藩の改革担当者が断罪されました。
農民側に処罰者は出なかった、珍しいケースです。

元文三(1738)年:磐城平藩元文一揆
陸奥国磐城平藩領で起きた一揆。
藩の財政建て直しのために、これまでの物品への増税や特産物に新たに税がかけられたのですが、その撤回を巡って一揆が起こりました。藩主は日向国延岡に転封を命じられる騒ぎになったそうです。

元文四(1739)年:因伯一揆
鳥取藩領の因幡・伯耆二カ国で起きた一揆。
前年の凶作から藩に対する不満が爆発し、年貢の減免など12の項目を要求した農民が鳥取城下に押し寄せました。
要求の一部は通ったものの、一部の過激派農民が城下に再び押し寄せたため、藩はこれを武力で鎮圧、首謀者は処刑されてしまいました。


 大きな一揆だけでもこれほどの数が起こっているので、規模が小さな一揆はもっとあったと思います。
 コメの増産による増税、コメ以外の産物に課せられた新たな税、それらによって幕府はうるおいましたが、農民の暮らしは苦しくなる。吉宗のコメ政策は、決していい面ばかりではなかったようです。


 次回は最初に申し上げたとおり、その他としてまとめたもののうち後半をお送りいたします。目安箱とか。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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