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徳川さんちの十五代:八代・吉宗 その13

 前回まで、吉宗の時代の政策や事象として、経済と一揆を見てきました。
 今回はその他の項目を覗いてみたいと思います。
 取り上げきれなかったものもあるのですが、全部やっていたらエラいことになってしまいます(苦笑)
 お読みくださる方は続きへお願いします。


◆裁判関連◆
<スムーズで正確な裁判のために・公事方御定書>

 元文年間から編纂が始められ、寛保二(1742)年に約6年の歳月をかけて完成した裁判法典です。
 上下巻に分かれており、上巻は81の例を取り上げた法令集、下巻は幕府の先例や取り決めが収められています。

 刑法のみならず民事法や訴訟法なども含まれていて、増え続ける訴訟問題を明確・迅速・客観的に処理するために作成されたそうです。吉宗も担当の奉行からの質問に答え、意見を述べています。

 なお、本来この御定書は門外不出であり、評定所で審議を行う三奉行・裁判の任にあたる京都所司代・大坂城代のみに閲覧が限られていました。
 しかし実際には、審理を行う役職が内容を熟知している必要があるため(そりゃあそうだ)、写本を行っていたそうです。そのため、多くの写しが現在に残ることになりました。

<解決は自分たちで・相対済し令>
 江戸町奉行の管轄地域では、吉宗の時代に訴訟が公事訴訟(民事訴訟)が増加し、年間5万件の訴えのうち実際に判決まで持っていけたのはその3割とも言われています。

 そこで出されたのが「金銭の貸し借りに関する訴訟は当事者同士で解決してね。要するに内済してね」という相対済し令でした。それまでにも限定的に内済の法令は出ていたのですが、内容は限定的でした。が、享保年間に出された相対済し令は、おカネのことに関して全部内済しなさいよという内容だったそうです。


◆民の声を聞く◆
<超有名・目安箱>

 享保六(1721)年に吉宗が江戸の評定所前に設置した、民間からの直訴を受け取るための箱です。

 こういうのって吉宗が最初だとばかり思っていたのですが、1600年代中頃からすでに各藩では訴状箱が設置されており、内容は江戸には送られずそれぞれの藩で処理されていたのだそうです。もちろん吉宗が藩主となっていた紀州にも置かれていました。

 江戸では吉宗の時代にやっと設置され、直轄地である大坂・駿府・甲府・長崎などにも置かれるようになりました。
 投書する内容には決まりがあり、政治に関する有益な提言であること・役人たちの不正を告げること・訴訟時に役人が詮議をしないことを訴えること(ただし役人たちに断ってから申し出なければならない)の3つでした。

 江戸の目安箱は将軍が閲覧し、老中からそれぞれ問題のある場所へと渡され、そこで話し合ってもう一度老中へ回答されていました。
 吉宗が箱を開け真っ先に内容を確認することで、将軍が直接民の声を聞き政治に反映させる。今度の将軍は民の意見に耳を傾けてくれるんだという印象を与えることが出来ました。

<ありがたかったはずの小石川養成所>
 町医師・小川笙船による目安箱への投書により享保七(1722)年に出来た、貧民対策の施設です。
 対象は江戸に入ってきている、地方からの出稼ぎ人や日雇い、奉公人など。
 治療は幕府の寄合医師や小普請医師があたり、収容人数は百名を超え、治療は無料、今で言う入院患者には米などが支給されました。

 そんなありがたい施設だったはずなのですが天保年間になると、医師が町医師に代わり、世話人の一部が支給品の米を売り飛ばしたり、医師が病室への見回りを怠るなど、不正が横行しました。

 幕末には医学館の多紀家預りとなり、明治維新で新政府の支配下に置かれ、まもなく廃止の道を辿りました。

<申し上げます・民間省要>
 享保六(1721)年、武蔵国川崎宿の田中丘隅という役人が書きました。
 役人の立場からは、宿駅の運営や自然災害による被害などを考えた農民の負担やその暮らし、課税・治水などについて書き、農民の立場からは役人の不正、役人と商人との癒着を訴えたり、民間からの人材登用・意見の採用などを提言しています。全17巻のうち16巻が将軍吉宗に上覧されたそうです。


◆その他◆
<民の健康のために・薬園>

 吉宗は全国に蔓延する病の対策として、薬草の栽培を奨励しました。
 享保五(1720)年から本草学者を全国に派遣し、各地にあった薬園の調査と情報交換を行いました。これにより、地方の薬園の知識と幕府の薬園の知識が交換され、全国に広まっていくことになります。

 江戸では享保五年に一万坪の駒場薬園が開設され、翌年には既存の小石川薬園を10倍の44800坪に拡張。
 地方では下総国に三十万坪の小金野薬園が出来、他にも浜庭園(現・浜離宮恩賜庭園)・久能山・駿府・佐渡に薬園が開設されました。
 また各地の薬園の整備も進み、享保年間は全国的に薬園が充実したということです。

<管理人のシュミ・享保日本図>
 管理人の個人的な趣味で取り上げさせていただきます(笑)
 元禄期に作られた国絵図に歪みがあったため、この国絵図を元にしながら修正と再編集が行われたのが享保日本地図です。享保二(1717)年から作成が始められ、翌年から二年間に渡り、計3回の調査が実施されました。

 日本全体は8つの地域に分けて描かれ、新しい測量技術による修正が行われて、享保十三年に11年の年月をかけて完成しました。

 紙や仕立て、絵の具の剥落対策も十分に行われた結果、約七百十両という大金が注ぎ込まれたということです。
 正確な地図無くして国の統治は図れないということでしょうか、すごい金額、すごい年月がかけられましたね。


 次回は吉宗最終回、吉宗の子どもたちについてお送りいたします。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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