FC2ブログ

徳川さんちの十五代:八代・吉宗 その14

 政治面では改革を実行し、一定の成功を見せた吉宗ですが、いつの時代も気になるのは後継者問題です。
 吉宗の子どもたちにはどんな人物がいたのかを見ていきましょう。
 御三卿のうち2人が吉宗の子であるのは有名な話ですね。
 お読みくださる方は続きへお願いします。


◆長男・家重◆
 側室・須磨(父は紀州藩士で、吉宗側近・加納久通とは親戚)との子。
 9代将軍となるので詳細はその際の紹介に譲りますが、言語障害があったとか、実は女子だったとか、いろいろと噂が絶えません。

◆次男・宗武◆
 側室・古牟(読み方は、こん。紀州藩大番頭の娘)との子。田安家初代当主。
 15歳で『論語』を暗唱し、父・吉宗の覚えもめでたく、次の将軍になると目されており、本人にもその自覚があったようです。
 しかし、長幼の序を重んじた吉宗が家重を将軍と決めると、家重の欠点を挙げ連ねた文を提出し、3年間の謹慎を命じられてしまいます。
 登城が許されてからも、吉宗や家重との面会は許されず、監視され続けられたということです。

 宗武は、家重に万が一のことがあった場合に備えて、「田安家」という分家として扱われ、江戸城中のいわば部屋住みとなります。
 しかしながら上記のように、将軍を批判する文を提出してしまった手前、冷遇されたようです。
 二代目の治察(はるあき)も家を継いだ3年後に跡継ぎを残すこと無く死去してしまい、田安家は早々に断絶の危機に陥ってしまいました。
 吉宗の考えで、跡継ぎがいない場合はお家断絶となっていましたが、13年の空白を経て一橋家(宗武の弟の家系。後述します)から田安家の当主を出すことになりました。
 幕末には田安家の亀之助が徳川宗家を継ぎ、間接的ながらも宗武の悲願は成就されたと…言えるかな…。

 宗武自身は古典や和歌を愛し、荷田在満(荷田春満の弟の子で、春満の養子)や賀茂真淵に学びました。
 師匠のメンツからして、国学にも長けていたのではないかと思います。
 また、正室の森姫が関白・近衛家久の娘であったことから、宮廷文化にも詳しかったようです。

 頭もよく、正室は五摂家筆頭の近衛家。
 吉宗も最後まで誰を後継とするか、迷ったかもしれませんね。
 息子に、11代将軍・家斉の元で寛政の改革を行った松平定信がいます。

◆三男・源三◆
 側室・梅との子。夭折。
 梅は和歌山城に奉公に出て、吉宗の母・浄円院の女中として働いていたところを吉宗に見初められたそうです。
 源三は残念なことになりましたが、次にご紹介する四男・宗伊を産みます。

◆四男・宗伊◆
 側室・梅との子。一橋家初代当主。
 宗伊も宗武同様、家重に万が一のことがあった場合の将軍候補として「一橋家」という分家として扱われました。
 後に清水家が加わって「御三卿」と呼ばれますが、それまでは田安・一橋は「御両卿」と呼ばれていました。

 宗伊は武芸を好み、特に鷹狩が好きだったということです。
 「鷹狩は一年にひとり10回まで」と決められていたのですが、あまりにも好きすぎて、お兄ちゃんの宗武の分を譲ってもらったとか。
 鷹狩をするのにも、装備とか供回りとかでお金がかかるので、無制限に出来るというものではなかったのでしょう。
 
 ちなみに、一橋家創設後、家格を上げたい越前福井松平家から、宗伊と息子重昌のセットでの養子の話が舞い込みました。
 宗伊は、自身の養子は断り、息子の重昌を9代目福井藩主として送り込みます。
 しかし重昌が早世したたため、続けて重昌の弟・重富も養子に出し、10代目となりました。

 幕末には、養子に迎えてという形ではありますが、一橋慶喜が将軍になり、越前福井松平家からは、これもまた養子なのですが、松平慶永(春嶽)を排出します。
 血はつながっていなくても、家柄という面では一橋家、今後の運命が大変なことになります(;^ω^)

◆長女・芳姫◆
 側室・久免との子。
 久免は和歌山城で吉宗の母・浄円院の世話をしていましたが、梅や古牟が立て続けに亡くなり、側室として迎えられました。
 吉宗が将軍に就任した6年後に芳姫が生まれるも、翌年に夭折してしまいます。

◆養女・竹姫◆
 権大納言・清閑寺熈定の娘で、島津藩主・島津継豊に嫁ぎました。
 ここまで書いてきたのをご覧いただくと、吉宗は女児に恵まれていなかったことがわかります。
 そこで吉宗は養女を迎えることにしました。

 どんな来歴の方なのかと言うには、ちょっと時代を遡ります。
 5代将軍綱吉の側室・寿光院は、清閑寺熈定の姉妹でした(姉なのか妹なのかは調査不足で不明です)。
 寿光院は子どもに恵まれず、兄の子である竹姫(当時3歳)を養女にしたいと言い出し、綱吉もそれを了承しました。
 側室が養女を取るなど異例のことで、当時は随分と話題になったそうです。

 この竹姫、苦難の多い一生でした。
 まずは婚約者問題。3代目会津藩主・松平正容の嫡子である正邦、有栖川宮正仁親王と立て続けに相手が亡くなってしまいます。
 一時期は吉宗の側室にとも言われましたが、竹姫が形式上は吉宗にとって大叔母にあたること、吉宗の支援者であった天英院(6代将軍・家宣の正室)と竹姫が不仲だったことなどから実現しませんでした。

 20代半ばになってようやく島津家への輿入れが決まりました。
 島津家と天英院の実家である近衛家が近い関係であったことから決まったとも言われています。
 しかし島津家では将軍家の養女を迎えるだけの経済力に乏しかったことや、すでに藩主に長男が誕生していたことなどからかなり嫌がった様子。
 継豊との間に男子が生まれても世継としないなどの条件をてんこ盛りにつけ、ようやく輿入れが実現したそうです。

 輿入れの経緯から、継豊との仲はビミョーだったようで、継豊が隠居し薩摩も戻っても、竹姫は江戸に留まり続けました。
 しかし竹姫は島津への嫡子・宗信(後の6代藩主)や孫の重豪(後の8代藩主)の養育に力を注ぎ、薩摩藩に大きな影響をもたらしたとのことです。

 重豪の娘が11代将軍・家斉の正室となり、重豪のひ孫である斉彬の養女が13代将軍・家定の正室となるなど、もう少し後の時代に幕府と薩摩藩の密接な関係が取り沙汰されることが多いのですが、8代将軍という江戸中期にも両者の関係が見て取れます。近衛家も折に触れてキーマンになっていますね。


◆養女・利根姫◆
 吉宗の後の紀州藩主・徳川宗直の娘で、仙台藩6代藩主・伊達宗村に嫁ぎました。
 東北の雄・伊達家との縁談ですね。
 前述の竹姫は南、利根姫は東北。日本海側は一橋と、幅広く吉宗の目が光っていたのであろうことを思わせます。


 長々と書いてきた吉宗の記事は、これにて終了とさせていただきます。
 次回からは9代将軍・家重をお届けいたします。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。

コメント

非公開コメント

web拍手
コヤマライヴジム
ブクログ
カテゴリ
プロフィール

小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

QRコード
QR
リンク
検索フォーム