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徳川さんちの十五代:九代・家重 その2

 更新がめっちゃ遅くなってすみませんm(_ _)m

 約14年6ヶ月の将軍在位だった家重ですが、最初の6年は吉宗による大御所政治であり、吉宗が亡くなってからは家臣によって政治が続けられました。
 あまり自ら政治を行った印象のない家重、実のところはどうだったのでしょう。
 お読みくださる方は続きへお願いします。



◆吉宗からの代替わり◆
 まず、家重は吉宗からの計画的な代替わりがありました。
 吉宗の隠居は1745(延享二)年のことで、七月に吉宗が「右大将(家重)も成長したので、近々引退して将軍職を譲ろうと思う」と諸大名に通達。
 九月に引退を正式に発表して、大岡忠相を御座の間へ呼び出し、引退と今後について相談、西の丸に移り、大御所となりました。
 同時に35歳の家重は曇り空の下、本丸に入り、小さな声でご挨拶をしました。実際に将軍の宣下があったのは、同年十一月です。

◆薩摩藩が請負・木曾川治水工事◆
 中央アルプスから流れて伊勢湾に注ぐ木曾川・長良川・揖斐川は、平地部分で支流が複雑に交差し、氾濫を繰り返してきました。
 家康の時代に堤を築いたことはあるものの、まだ水害は多発していました。
 そこで幕府は宝暦三(1753)年、薩摩藩主・島津重年に手伝普請を命じ、河川改修工事を行うことにしました。

 ところがこの河川改修工事、上記3つのデッカくて複雑な川筋を分流するという大規模なもので、薩摩藩内では普請を断るという意見も出たそうです。
 それでもどうにか工事を開始しましたが、当初15万両と見込まれた工事は40万両にまで膨れ上がました。手伝普請なものですから、それらは薩摩藩の負担になります。
 さらに不慣れな土地での過酷な工事で、二年間の工期中に病死者33名、抗議の切腹者53名という犠牲者まで出しました。
 これほどの工事を請け負わざるを得なかった背景には、幕府からの命令というだけでなく、吉宗の養女が島津重年の父に側室として嫁いだという側面もあると思います。

 ちなみにこの後、明治になってから、当時最新の土木技術でさらなる治水対策が施され、宝暦年間の治水に対しては碑が建てられました。
 また、昭和に入ってからも、薩摩藩士を祀る神社が建立されたということです。

 関ヶ原の戦いで負け、木曽川治水工事では負担を強いられ、死傷者多数。
 薩摩藩の幕末での頑張りは、このあたりにも動機があったのかなとちょっと思ってしまいました。

◆続く一揆◆
 吉宗の時代も年貢や土地などを巡って一揆が起きましたが、家重の時代になってもそれは収まりを見せませんでした。
 主なものをご紹介します。

宝暦四(1745)年:郡上一揆
 美濃国郡上藩領における一揆です。
 郡上八幡藩で年貢の取り立てを定免法から検見法に代え、年貢の増徴をはかったところ、領民は大反発。城下に人が押し寄せて強訴を行いました。
 藩は江戸藩邸へ強訴の内容を届けることを約束しましたが、これを反故にしたため、領民の一部が江戸へ行き、江戸藩邸へ訴状を提出します。
 しかしこれも聞き届けられず、老中へ駕籠訴を行いました。

 通常、駕籠訴を行った者は罰せられるのですが、この時は内容を加味されて釈放され、帰国後は村預けとなりました。
 ところが肝心の要求のほうは聞き入れられず、事態は膠着。一揆に参加した農民と参加しない農民の間で対立も生じてきてしまいます。

 藩側と農民側で乱闘が生じ、多数の負傷者が出たところで再び江戸へ訴えを出しました。
 北町奉行に老中・田沼意次も加わっての吟味の末、この件に関与した老中や若年寄の逼塞・改易、郡上藩主も改易、農民側の多数の牢死、獄門など、多くの犠牲を出し、やっと一揆が収まりました。 

宝暦四(1745)年:久留米騒動
 久留米藩で領内に人別銀(人頭税)を課すことが決まり、藩領全体で反対する強訴や打ち壊しが起きました。
 同時に藩札引き換えや小作料の引き下げなどを要求する運動も加わり、藩は人別銀を撤回することになりました。

寛延元(1748)年:姫路藩寛延一揆
 領内へ御用金を課されることに反対した農民たちが河原に集結したため、いったんは藩が年貢の延納を認めたため終息に向かいました。
 しかしその後、庄屋や御用商人、特権商人などを標的とした打ち壊しが起き、農民側が磔刑・遠島・過料などで200名近く処罰されました。

寛延元(1748)年:蓑虫騒動
 福井藩内で起きた、御用金を課されることに対する強訴。
 この時期はどこの藩も財政が逼迫し、御用金を課していたようで、藩札の信用問題にまで及んだそうです。
 藩は御用金を取り消すとともに、困窮者へお救い籾を放出して、事態は沈静化に向かいました。

宝暦六(1756)年:五社騒動
 二年前の宝暦四年に、徳島藩は藍の専売を強化し、新税を徴収しました。
 宝暦六年の藍が凶作となると、農民は専売で絞り上げられてきたことと、凶作による困窮とで、強訴を行う計画を立てました。
 藩側がその動向を察知していたため、実際には強訴が行われるまでには至らなかったものの、農民側に5人の磔刑者が出ました。


◆公家同士のバトル・宝暦事件◆
 宝暦八(1758)年から翌年にかけて、幕府が公家の徳大寺家家臣・竹内式部を処罰した事件です。
 竹内式部は、儒学者で思想家である山崎闇斎門下の者に学び、神道や儒学についての書物の講釈を行い、宝暦年間に公家の間で影響力を持っていました。
 それが尊王論者であると問題視され、宝暦六年には京都町奉行所によって取調べが行われました。竹内が京都洛外で軍学や武術を指南しているという風聞が流れたせいですが、この時は事実無根として解放されます。

 しかし竹内の門下生である徳大寺・正親町三条・坊城・烏丸といった公家たちが、桃園天皇に対して日本書紀の神代の巻を進講してしまいます。
 これが天皇への神道系書物の進講を中止させようとしていた上層公家の怒りを買い、宝暦八年に一条家などが京都所司代にタレコミました。
 
 竹内は再び取調べを受け、彼の説く思想(垂加神道説。いくつかある神道系思想の一つで、わりと熱烈な尊王攘夷論と解釈されている)が問題視され、天皇への進講を行った徳大寺ら8名は罷官・永蟄居、その他10名以上の公家も謹慎などの処分を受けることとなりました。
 竹内は京都所司代から、子ともども京都からの重追放という刑を言い渡されました。家屋敷・田畑を没収、京都から十里四方での居住を禁じるという、追放刑の中でももっとも重い刑罰でした。

 これを「宝暦事件」と呼ぶのだそうです。
 処分を下したのが(表向きは)京都所司代なので、幕府による尊王論者の弾圧と見られることもあるのですが、朝廷内の権力争いに幕府が力を貸したという見方もあるそうで…私もどちらかと言えば後者な気がします(;^ω^)

◆銅座◆
 日本全国の銅山から産出される銅を集荷し精錬して、輸出向けの銅と国内向けの銅の陶製を行うのが銅座でした。
 この銅座、2回ほど廃止と再設置をし、明和三(1766)年に3度目の設置をいたしました。
 銅の価格統制をし、銅座に運用資金が回るように定められ、さらに幕府にも利益が上がるようにしようと目論みました。
 が、経営は難しく、文政二(1812)年から銅座は大坂町奉行から三井家と住友家に経営を任せていたということです。

◆藩政改革◆
 この時期は米沢藩の上杉鷹山など、藩の立て直しを行い、名君と呼ばれた人物が登場します。
 日本全体に吉宗の改革が届いていき、良くも悪くもそれに対応せねばならなかったでしょうし、どの藩も江戸時代初期から長い年月が経って、幕府だけでなく改革が必要となったのではないかと思います。

 行われたのは、人材登用と行政改革、藩史の記録や編纂、農村の立て直し、藩校の設置や民の教化などの教育推進、殖産、専売制などなど。
 よい暮らしを手に入れるために、官民が頑張ったといえるかなと思います。


 家重があれこれしたという大きな動きはありませんが、吉宗の時代の余波が行き届き、各地で様々な動きが発生していました。
 次回は家重の時代の人物を追っていきたいと思います。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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