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徳川さんちの十五代:九代・家重 その3

 家重は、書き残されている人となりや骨の状態から、脳性麻痺だった可能性があるそうです。
 そのため、実質的に政務を執れなかったとも言われています。
 そんな家重を支えていた幕臣たちや、この時代に目立った人物たちを調べてみました。
 家重の時代が約15年と短かったことから、吉宗の頃から仕えていた人や、次代まで仕えた人たちもいます。
 お読みくださる方は続きへお願いします。



◆家重の唯一の理解者?・大岡忠光◆
 吉宗が引退し、田沼意次が登場するまでは、幕閣がこぞって家重や幕府を支えてきました。

 老中・安藤信友が若き日の家重の世話をしていましたが、家重が将軍に就任する前に亡くなってしまいます。
 代わって家重を支えてきた幕臣の中で、もっとも有名なのは大岡忠光でしょう。
 忠光は、大岡忠相の縁戚にあたります。16歳から家重の小姓を務め、家重が将軍になると御用取次に就任、若年寄を経て側用人になりました。

 言語が不明瞭な家重の言葉を唯一理解できていたとされ、重く用いられましたが、おごることなく慎まやかだったそうです。
 政務に関しては老中たちと協議し、上手に事を運んでいきました。


◆派手さはなくても・板倉勝清◆
 幕末の老中・板倉勝静と同じく“いたくらかつきよ”という読み方ですが、幕末の勝静は板倉分家で、こちらの勝清は板倉本家です。

 家重が将軍になった年に勝手掛老中・松平乗邑が罷免された後、まだ若年寄ではありましたが勝手掛(財政担当)に就任しました。
 老中らとともに政治を取り回し、寛延元(1748)年には29年振り10回目の朝鮮通信使来訪をこなしました。将軍の代替わりを祝うための訪問でしたが、毎回費用はかさみ、100万両の支出があったそうです。ちなみに1811年に行われた第12回の来訪をもって終了しています。勝清は朝鮮通信使来訪を処理した功績で五千石を加増され、その後も大岡忠光の後任として側用人になり、老中にまでなりました。

 もうひとつ、勝清にはエピソードがあります。
 板倉家はいくつかの家に分家しているのですが、そのうちのひとつの家に、板倉勝該(かつかね)という旗本がいました。
 勝該はある日、江戸城中で突如刃傷沙汰に及び、熊本藩主・細川宗孝を斬りつけてしまいました。

 理由は諸説あり、もともとちょっとアレだった勝該に旗本家を継がせるのはナニだから、勝清が自分の子をもって旗本家を継がせようとしていたのが気に入らず斬ろうとして、たまたま家紋が似ていた細川宗孝を間違えて斬っちゃったとか。勝該の屋敷が細川の藩邸より低いところにあって、藩邸からの水がジャージャー流れ込んできていたのを対処してもらえなかったのでアタマにきて斬っちゃったとか。まあなにがしかの恨みつらみがあっての行動だったようです。

 いつの時代も人間の業って変わらないんだなあと思いつつ、江戸城中で時々刃傷沙汰あるよねー、と思ってみたり。


◆まったり潤滑油・松平武元◆
 お名前は“たけちか”と読みます。
 棚倉藩松平家という親藩に養子に行ったものの、本人は水戸徳川家初代からするとひ孫(つまり家康の玄孫)。
 奏者番と寺社奉行を兼任していたところを吉宗に見出され、家重の補佐を頼まれて、老中になりました。

 人柄も才能も優れた人物であったとされ、田沼意次も武元の存命中はおとなしくしていたそうです。
 このお人も特筆すべき活躍は見当たりませんでしたが、吉宗の政治を定着させ、家重を盛り立てていくのに長けていたのだと思います。


◆尊王運動の勃興? 儒学者の活躍◆
 前回の記事で公家同士のバトル「宝暦事件」を扱いました。
 その時に尊王論者が弾圧されたとの見方もあるけれど、私は朝廷内の権力争いじゃないかと見たのですが、今回調べてみて、民間の間にもだいぶ尊王思想が広がっていた時代かもしれないことがわかりました。

 例えば、出羽国秋田郡二井田村の医者・安藤昌益は、神仏分離や天皇が世を治めるべきであり、領主制や主従制を批判。
 大岡忠光に仕えた甲斐国巨摩郡の山県大弐は、役を辞した後に医学と武田流兵学を教えており、幕府に謀反の疑いをかけられたり。
 大坂の幕府公認学校・懐徳堂出身の富永仲基は、仏教を学びながらも批判し、儒者でありながら儒教や神道も批判し、この後に本居宣長や平田篤胤といった国学者に影響を与えたりしました。

 儒学と言っても、さらにその中に陽明学とか朱子学とかの思想に分かれるので、ひとくくりには出来ませんし、そもそも幕府も昌平黌で儒学を取り上げていたり、征夷大将軍は朝廷からいただくものであったりもするので、幕府も決して帝を粗雑に扱おうというわけではないのですが…。
 帝と幕府、政治的にどちらがエライのかがちょっと混沌としてきている時代、そこんとこハッキリしなさいよという人たちもいたのかな、と。


◆医学も進んできた◆
 吉宗が外国の知識を積極的に取り入れたことが民間にも浸透してきたのか、医者の間で西洋医学の知識が話題になってきました。

 丹波国亀山藩の医者・山脇東洋は、従来の陰陽五行説による五臓六腑説(陰陽五行と内臓の働きには深い関係があるという説)に疑問を持ち、京都六角獄舎における日本初の人体解剖を見学しました。これは後に杉田玄白らの解剖書作りに大きな影響を与えたとのことです。

 仙台藩の支藩・一関藩出身の建部清庵は、宝暦五(1755)年の東北大飢饉で、飢饉への備えとして草木の食べ方・解毒報などをまとめた救荒書を出しました。
 一方でオランダ医学に興味を持ち、自ら江戸に遊学して杉田玄白と会って話を聞いたりしたそうです。
 そして自分の子どもたちや、弟子の大槻玄沢を杉田玄白に弟子入りさせています。


◆この時代に義経千本桜とか忠臣蔵◆
 有名な歌舞伎の演目『義経千本桜』が出たのは家重の時代です。
 また、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』も歌舞伎へ翻案され、5ヶ月の間に森田座・市村座・中村座で上演されて大ヒットを記録しました。


 次回は家重の家族について述べたいと思います。清水家が出来て、ついに御三卿がカタチになります。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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