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徳川さんちの十五代:九代・家重 その4

 今回は家重の家族について調べてみました。
 家重自身の子どもは二人で、そのうち一人は次の将軍になります。
 お読みくださる方は続きへお願いします。


◆長男・家治◆
 後に十代将軍となります。
 側室・お幸の方と家重の間に生まれました。
 詳細は将軍紹介の項目にて。

◆次男・重好◆
 側室・お遊喜の方との子。
 延享二(1745)年に江戸城西の丸で生まれ、宝暦九(1759)年に十五歳で元服。父であり将軍の一字をもらい、重好と名乗りました。
 御三卿のひとつ・清水家を興して伏見宮貞健親王の姫・田鶴宮貞子を正室に迎えますが、後継ぎのいないまま51歳で亡くなりました。

 清水家は領知を没収され、屋敷は御用屋敷となり、家臣は幕臣に組み入れられるも、当主不在のまま約10年、名前だけが存続します。
 そして文化二(1805)年、十一代将軍・家斉の五男が嗣ぐことになります。

 重好と家治の仲はよく、幼い頃はよく行き来していたそうです。
 しかし、従兄弟の一橋治済(のちの十一代将軍・家斉のパパ)のような政治力はなく、家治の長男が亡くなった後も将軍候補になれず、一橋家に将軍家を握られてしまいました。この辺りの詳細は家治か家斉の項目で述べさせていただきますね。

◆正室・比宮増子◆
 “なみのみやますこ”と読みます。
 伏見宮邦永親王の四女で、血縁的には吉宗の正室の弟の子どもにあたります。
 吉宗は世襲親王4家の中でもっとも古い伏見宮家と縁戚になることを強く望んでいたのでしょう。
 家重と同じ歳で、21歳で婚約をして嫁いできたものの、家重の様子にちょっとビックリしてしまったようで…。
 享保十八(1733)年に流産した後、23歳で他界してしまったそうです。

◆側室・お幸の方◆
 上記の比宮の輿入れの際か、比宮の死から2年後に江戸へ入ってきた、生年不詳の女性です。
 父親は権中納言・梅渓通条だそうですが、裏は取れていません。
 十代将軍・家治を産み、もうひとりの側室・お遊喜の方も男子を産んだだめ、確執があったかもしれない…ぐらいしか情報がありませんでした。
 生まれ年はわかりませんが、享保十六(1731)年〜十八年ごろに江戸へ来て、延享五(1748)年に亡くなっており、15〜7年ほど側室として存在していたことになります。

◆側室・お遊喜の方◆
 父は浪人の三浦五郎左衛門義周で、小姓組の松平又十郎親春の養女となり、西の丸大奥のお次(御台所の身の回りのお世話係)として出仕。
 のちに中臈(将軍や御台所のお世話係)となって重好を産みました。中臈には身分の高い者や見目の良い者が選ばれたそうなので、お遊喜の方は美女だったのかもしれませんね。
 家重が亡くなった後は、本丸から西の丸の屋敷に移り、西の丸の屋敷が火災に見舞われると清水御殿に一時期仮住まいをし、桜田御用屋敷や浜御殿に住んだとも言われています。69歳で寛政元(1798)年に69歳で亡くなりました。


 以上のように、家重はご紹介する家族があまり多くありません。
 一説には酒食にふけり、大奥に篭っていたことが多かったとも言われておりますが、その割にはお子さんも側室も少ないなあと。
 そこで女性説が出たり、いろいろと憶測されたりしているようです。
 将軍の割には子どもが少なかったこと、特に女子がいなかったことで、周りに縁戚関係を築きにくかったことが、今後に影響してくるように思えます。

 次回からは十代将軍・家治をお送りいたします。
 家重は地味な将軍という扱いですが、私は二代目とはそういう役割になりがちなのかなと思っています。
 ここまでお読みくださりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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