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徳川さんちの十五代:十代・家治 その1

今回からは十代・家治くんを取り上げます。
この方も、田沼意次や平賀源内などの有名人がいるせいか、影が薄いですね。
優秀な部下を使って政務を行っていたとも考えられます。
まずは家治の生涯やその時代をざっくりと見てみましょう。

◆簡易プロフィール◆
生年:1737年(元文二年五月二十二日)
没年:1786年(天明六年九月八日)
享年:50歳
将軍在位:26年
身長:153.5cm
一言:在位中、一度も朝会を休みませんでした。


◆家重の長男として誕生◆
 家重が26歳の時、側室のお幸の方を母として生まれました。
 幼い頃から学問や武術にも熱心で、祖父・吉宗も大いに期待してたようです。
 幼名は家康と同じ「竹千代」とつけられ、吉宗が抱っこをしている最中におもらしをしても、まったく怒られなかったという話もあります。

◆24歳で将軍になるも、官僚政治で自らは目立たず◆
 宝暦十(1760)年、父・家重の側近である大岡忠光が亡くなります。
 すると家重は引退をし、家治が24歳の若さで将軍になりました。

 吉宗から将軍の心得をみっちり叩き込まれていた家治は、武芸をたしなみ、学問も覚えが良かったそうです。

 しかし、家重の時代に形作られた官僚政治のため、家治に政治的活躍の機会はありませんでした。
 初期は松平武元や大岡忠光(家重その3でご紹介済み)、忠光が亡くなってからは田沼意次などが幕政を握り、家治は趣味に没頭する毎日を送ったそうです。
 将棋が好きだったようで、問題集を書き残しています。また、武芸を見たり、鷹狩りの再開(たぶん家重が病弱だったために行われていなかったと思われる)などもしています。吉宗以来48年ぶりの日光参詣も行いました。

◆吉宗時代から続く殖産興業◆
 政治については田沼意次が専売制や株仲間などの殖産興業政策、御用金制度などがありました。詳しくは田沼の記事に譲ります。
 また、各藩も吉宗や田沼の政策を受けて国産商業を盛んにし、松江藩や米沢藩(上杉鷹山)などが頑張りました。
 コメによる収入に依存しない経済が進められていきました。
 また、外国の存在も意識しており、最上徳内たちによる蝦夷・樺太探検が行われたり、林子平の海防書『海国兵談』が出版されています。

◆災害も多かった◆
 火砕流に埋め尽くされた浅間山噴火(信濃)・前年から鳴動していた三原山噴火(大島)・300年ぶりの桜島噴火(薩摩)と、噴火に続く噴火。
 明暦の大火以来の大火事である目黒行人坂の火災、夏でも綿入れを着たほどの冷夏だった天明の大飢饉などもありました。

◆出版文化の隆盛◆
 この時代は出版が盛んになり、多色刷りの浮世絵、川柳、狂歌、黄表紙など、書物がどんどん出されました。
 有名な書物では、『解体新書』や『豆腐百珍』があります。

◆有名人も多数排出◆
 マルチクリエイター・平賀源内、『解体新書』翻訳の杉田玄白、前野良沢、その挿絵を描いた秋田蘭画の小野田直武など、魅力的な人物がいっぱいでした。

◆脚気か毒殺か? 50歳で亡くなる◆
 天明六(1786)年八月初旬、家治は脚気を患い、続いて風邪も引いてしまいました。
 八月下旬には体調が悪化し、九月八日の午前10時頃、息を引き取りました。
 死因に関しては、田沼意次が町医者と謀って将軍に毒を持ったとも噂され、田沼は解雇されてしまいます。
 家治と田沼は同時にこの世での役割を終えたことになりました。


 詳細はそれぞれの項で紹介させていただきます。
 次回は田沼意次の政治を見ていきましょう。
 ここまでお読みくださりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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