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徳川さんちの十五代:十代・家治 その3

 今回は家治時代の災害について調べてみました。
 行人坂の火災や浅間山の噴火などがあります。
 お読みくださる方は続きへお願いします。



◆迫りくる足音◆
明和三(1766)年
弘前・青森周辺が大雪、ついで大地震に見舞われれ、津軽藩領内の死者が1240人に上りました。

明和四(1767)年
 尾張と三河が洪水と山津波により、農地と東海道の宿場に大きな被害が出ました。

明和五(1768)年
 吉原の大火。一般居住地域での仮託営業が許可されました。
 それと、蝦夷の有珠山が噴火しています。

明和七年(1770)年
 夏、諸国が干ばつに見舞われました。蝗の大発生、稲も小豆も全く実らず、幕府は予算縮小。年貢減免のための一揆なども頻発しました。
 ほうき星が中天高く輝き、不吉なことが起こるのではと噂が立っていました。

明和八(1771)年
 琉球で大地震、大津波が起き、死者多数。


◆江戸で大火◆
明和九(1772)年
 江戸・目黒行人坂の火災。
 次々と火が広まり、江戸の主要部分はほぼ焼き尽くされてしまいます。
 死者約1万5000人、行方不明者約4000人。
 類焼は町が934、大名屋敷169、寺社が382にも上り、明暦の大火以来の大火災となりました。
 夏から秋にかけて大雨や台風などもあり、災害が続いたことから「明和九年→迷惑年」と揶揄されるようになり、「安永」への改元が行われました。


◆噴火に次ぐ噴火◆
安永八年(1779)年
 安永に改元されてからしばらくは大きな自然災害は記録されていませんでしたが、この歳は春の大寒波、夏の大洪水、大雨、秋も低温。
 十月には桜島が300年振りの大爆発を起こし、灰が大坂まで降ったそうです。

天明二(1782)年
 この年も大風雨や洪水が各地を襲い、大きな被害を受けた西日本へコメが送られました。
 この影響を受け、翌年には以下の通り、東日本のコメが足りなくなってしまいます。

天明三(1783)年
 浅間山が空前の大噴火を起こし、多大な被害をもたらしました。噴煙、溶岩、火砕流が襲いかかり、蒲原村(現在の群馬県嬬恋村)は567人中466人が死亡、93軒が灼熱の土砂に飲み込まれました。

 火砕流は渓谷にたまって川をせき止め、決壊した鉄砲水が川下の村々を押し流しました。家財道具や死体が、江戸川や利根川の下流まで流れてきたということです。

 降灰は関東一円におよび、江戸にも3cm積もるほどだったり、遠くロンドンではやたらときれいな朝焼けや夕焼けが観測されるなど、日本だけでなく北半球までにも影響がありました。

 これを描いた絵がまたすごくてですね。
 「浅間山噴火」でググっていただけると見られるのですが、標高が約2600mの浅間山の数倍もある真っ赤な大噴火が描かれているのです。
 資料本で初めて見た時、すごい迫力にビビりました。当時の人達がこんな風に噴火を見ていたのかと思うと、本当に恐ろしいです。

 また、この年は天明の大飢饉にもなりました。
 ここまでにも書いてきたように、明和年間は大雪や干ばつ、大雨に台風など異常気象の連続でした。
 この年は初っ端から暖冬、春の低温、秋の長雨。そこへ浅間山の大噴火が起こり、降灰による天候不良。作物が取れなくて当然です。
 さらに、前年の西日本の作物不良でコメが西へ流れていたため、備蓄も少なく、餓死者が続出。
 津軽藩では餓死者が8万人余、田畑の三分の二が荒廃しました。南部藩でも死者は4万人余、余所の土地に逃げていった人数を含め人口の2割近くを失いました。

 この後も各地で大雨や飢饉が続き、幕府は藩におカネの貸与や施し米などを行いましたが、充分ではなかったようです。
 コメの不作による年貢の減免や備蓄米をめぐって、一揆や暴動が頻発した時代にもなりました。

 異常気象が繰り返し訪れ、地震や火山の爆発が各地で発生する。
 なんだか現代と似ているような気がするのですが…。
 歴史から学び、常に備えを怠らないようにしたいですね。


 次回は出版文化について取り上げたいと思います。
 ここまでお読みくださりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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