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徳川さんちの十五代:十代・家治 その5

 遅刻してすみません。ご紹介したい人物がいっぱいおりまして苦戦していました。
 奇才・尊王論者・絵画の発展・主にロシアへの対外感情など、盛りだくさんです。文字いっぱい。
 お読みくださる方は続きへお願いします。



◆江戸中期の奇才・平賀源内◆
 学校でも江戸中期の人物として名前が出ないことがないほどの有名人ですね。
 高松藩の蔵番の子として生まれ、長崎に遊学、大坂にも行き、江戸へ出てきました。

 江戸ではまず本草学者の田川藍水に師事。
 時代がちょうど殖産興業に湧いており、本草学→物産学として発展していたので、師・藍水とともに物産会などを開きました。

 本を書くのも巧みで、滑稽本『根南志具佐』、浄瑠璃『心霊矢口渡』、狂文『放屁論』などを執筆しています。

 長崎で学んだ西洋画は、鉱山調査で訪れた秋田藩で、秋田藩士の小野田直武に教え、秋田蘭画というジャンルに影響を与えました。
 小野田直武の展覧会を見に行ったことがありますが精密で、秋田蘭画すごいなと思ったことを覚えています。ちなみに小野田直武は『解体新書』の挿絵も担当しています。

 エレキテルの復原なども行い、世間を賑わせたりもいたしましたが、誤って人を殺してしまって牢に入れられ、獄中で病死してしまいました。


◆日本国のアイデンティティをしっかりと…? 国学◆
 万葉集を研究し、注釈と批評を加えた『万葉考』を描いたのは賀茂真淵
 神職の家に生まれた真淵は、幼少の頃から和歌や漢学・神書などを学び、37歳で上京すると、荷田春満(吉宗の時代でご紹介した神道家で国学者)に学びました。
 荷田春満の死後は江戸で古典講義などを行い、田安家に出仕を命じられ、古典や有職について著作をしました。
 田安家を退いてからは、万葉集などの古典から神道を解き明かそうとし、『万葉考』やほかの本をせっせと執筆しました。

 真淵を師と仰ぎ、古事記の研究を続け、『古事記伝』を出版したのは本居宣長(実際の出版は1790年なので、家治の治世が終わった4年後)。
 木綿中外商の家に生まれ、兄の死によって家業を継ぎましたが、商売は好きでなかったらしく、家業を畳んでしまいました。
 本好きが高じて、母親と相談の上、医業を学んで医者となりました。
 紀伊藩に出仕したこともあったりもしましたが、地元の高松に戻って昼は医業、夜は国学の研究を行ったそうです。
 医業を学びに京都へ遊学した際に様々な学問に接し、その中から国学を選んで生涯の研究としたと思われます。

◆宝暦事件に続く、尊王論者弾圧・明和事件◆
 尊王論者の事件としては、明和事件というものが起きています。

 上野国小幡藩(群馬県)での派閥争いが発端でした。
 実権を握っていた家老側にいた山県大弐という人物と、大弐の元に身を寄せていた藤井右門は、家老反対派に軍学講義をしていると藩主の父親にチクられてしまいます。
 大弐の門弟らが、自分たちも累が及んではかなわないとビビり上がり、幕府に大弐と右門が倒幕を企てていると訴え出ました。
 大弐は死罪、右門は獄門、小幡藩主は蟄居、家督を継いだ藩主の弟は出羽へ転封、ついでに家重の時代に起きた宝暦事件で伊勢に追放していた竹内式部も八丈島へ遠島(移送途中の三宅島で死去)に処されました。

 藤井右門は、家重の時代に「宝暦事件」に連座したものの江戸に逃れて山県大弐の元に隠れ住んでいました。
 山県大弐は、国学と垂加神道(神道系の中でもわりと熱烈な尊王論)を学び、「宝暦事件」の後に幕府を痛烈に批判する書を匿名で書いた人物です。

 門弟の裏切りもひどいのですが、ここまで弾圧されねばならなかった尊王論者…。
 幕末までは百年近くあるものの、すでに尊王思想と倒幕が結びつきつつある気配を感じます。 

◆才能あふれる出版界◆
 吉原に生まれ、『遊郭案内』や『吉原細見』などの吉原本を出版したヒットメーカー蔦屋重三郎
 蔦屋のもとには、太田南畝(狂詩『寝惚先生文集』、狂歌『満載狂歌集』)、恋川春町(黄表紙『金々先生栄花夢』)、山東京伝(黄表紙『江戸生艶気樺焼』)、朱楽菅江(狂歌『故混馬鹿集』)などが集まりました。

 『雨月物語』(怪異小説)の上田秋成や、『誹風柳多留』(川柳集)の柄井川柳、『解体新書』の杉田玄白・前野良沢、『蘭学階梯』(オランダ語の入門書)の大槻玄沢もこの時代ですし、スター作家が目白押しです。

◆絵画も新時代へ◆
 浮世絵はカラー化が進み、鈴木春信の紅摺絵が話題に。
 平賀源内の項目でお出しした小野田直武の秋田蘭画や、直武に師事した司馬江漢の、日本初の銅版画。
 地理学者・長久保赤水による、緯度・経度を初めて引いた日本地図の作成。
 伊藤若冲与謝蕪村池大雅などもほぼ同時代ですね。
 この辺りも、吉宗時代の海外からの知識が流入したことや、それらを吸収した平賀源内が大きく影響しているようです(春信も源内と知り合いだったとか)。

◆各地の中興の祖が誕生・上杉鷹山◆
 殖産興業ブームにより、あちこちの藩で藩政を立て直した中興の祖と言われる人物が出てきました。
 その中でも特に有名なのは、米沢藩の上杉鷹山ですね。
 
 鷹山は、日向国高鍋藩主の次男として生まれ、出羽国米沢藩8代藩主の養子となりました。
 17歳の若さで藩主になり、農村支配の再編、農民の教化、藩校の設置、桑・漆・楮などによる殖産興業などで、米沢藩の財政を立て直しました。
 新しい家臣や中堅の家臣を使って藩政を行ったため、古くから仕えている重臣たちの反発を買ったこともありましたが、重臣たちからの異議申し立てを調査し、申立が事実無根と判明すると処罰を行ったりもしたそうです。

◆ロシアを警戒? 北方への眼差し◆
 この時代ぐらいから、北方に位置するロシアとの関係がいろいろと出てきます。

 ハンガリー人のベニョフスキーという人物がロシアの捕虜になったのですが、仲間と軍監を奪って脱出し、食料と水の補給のために阿波と奄美大島に立ち寄りました。
 その際に、出島のオランダ商館長に宛てて「ロシアが日本の近隣諸島を狙っているよ! 千島にはすでに要塞も築かれていたりするよ!」という手紙を書いて送りました。幕府にもこの手紙の内容は伝えられています。

 前回の記事でご紹介した林子平の『海国兵談』は外国(北方)脅威論でしたが、仙台藩医の工藤平助は、ロシアの望みは交易であり、交易の資源として蝦夷地の金山銀山を開発、交易で得た利潤で蝦夷地の防御を固めることを提唱しました。平助は医学を通じて前野良沢や大槻玄沢ら蘭学者と親交があったらしく、彼らを通じて海外の情報を入手したり、松前藩関係者からロシアの情報を手に入れたりして、自論に至ったそうです。平助の提言は田沼意次に届き、天明期やそれ以降に行われた最上徳内ら蝦夷地調査のきっかけとなりました。

 大黒屋光太夫がロシアへ漂流したのも同時代です。
 伊勢国白子(鈴鹿市)から江戸へコメ等を輸送していた大黒屋は、駿河湾沖で暴風雨に遭って遭難してしまいます。
 大黒屋一行が漂着したのはアリューシャン列島の島の一つでした(地図で見てみると、めっちゃアメリカ側(;^ω^))。
 現地人や交易に来ていたロシア人たちと4年ほど島で生活し、カムチャツカ、シベリアを経てペテルブルグに至り、女帝エカテリーナに謁見。日本へ帰って来られたのは、流されてからおよそ10年後のことでした。
 帰国後は11代将軍徳川家斉の前で海外事情について聞き取りを受け、北方への危機意識や、蘭学者との交流による蘭学の発展などに貢献しました。江戸小石川に屋敷をもらい、妻もいたとのことです。


 ずらずらと書き連ねて読みにくいかと思いますが、いろーんな人物が時代の動きに載ってきている時代と思っていただければ(;^ω^)
 次回は家治の家族について書き、家治の記事の最終回とさせていただきます。
 ここまでお読みくださりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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