FC2ブログ

徳川さんちの十五代:十一代・家斉 その1

IMG_2030.jpg
はい、11代将軍・家斉くんまでやって参りました。
あと90年で幕末・明治維新というところです。
そのうちの50年は家斉くんの在位になります。
まず初回は、家斉くんの生涯や、その間にあった大きな事件などを見ていきましょう。

◆簡易プロフィール◆
生年:1773年(安永二年十月五日)
没年:1841年(天保十二年一月三十日)
享年:69歳
将軍在位:50年
身長:156.6cm
一言:子沢山ばかり注目されてるけど、時代も大変だったのよ?


 お読みくださる方は続きへお願いします。


◆御三卿・一橋治済の長男として誕生◆
 吉宗の四男・宗伊(むねただ)が興した一橋家。その2代目・治済(はるさだ)の長男として、家斉は生まれました。
 6歳の時に疱瘡、7歳の時に水痘にかかりますが、無事に治癒しました。

◆9歳で家治の養子に◆
 10代将軍・家治は、次男を生まれてすぐ亡くし、長男・家基も18歳で死去するという、跡継ぎ問題に直面してしまいます。
 家治の弟・清水重好にも子がなく(清水家は一時期的に断絶してしまいますが、家斉が五男をあてて再興します)、一橋家から家斉が養子として迎えられることになりました。
 ちなみに御三卿のうちの、もうひとつの家・田安家はどうしていたのかというと、二代目の治察(はるあき)が安永三(1774)年に亡くなっており、こちらにも跡継ぎがおらず、13年間明屋敷扱いになっていました。
 この辺りに、家斉が子沢山になっていく理由もあったのかなと思います。跡継ぎが大事な時代でしたからねえ。

◆15歳で11代将軍に就任◆
 天明六(1786)年に家治が51歳で亡くなると、翌年の天明七(1787)年に将軍に就任します。
 この時、家斉はまだ15歳でした。
 そこで、田安徳川家の二代目の弟である松平定信を老中首座とし、政治を助けさせました。定信については、寛政の改革込みで別途記事にいたします。

◆国内も対外も大騒ぎ◆
 国内では、主に江戸なんですけど、人足寄場(石川島)や昌平坂学問所(湯島)を設置したり、混浴禁止令や寛政異学の禁、出版統制の強化などを行いました。
 永代橋の崩落や天保の大飢饉、飢饉に対する打ちこわしとその鎮撫、大塩平八郎の乱も家斉の時代です。

 外国とのあれこれとしては、ロシアのラスクマンが使節団を率いて蝦夷地に現れたり。
 英国船が長崎でオランダ商館員を人質にとって食料などを要求したフェートン号事件。
 日本地図を国外に持ち出されそうになったシーボルト事件。
 漂流民を連れてきた商船を砲撃したモリソン号事件など。
 対外措置として、異国船打払令も出されました。

◆市井の有名人◆
 鬼平こと長谷川平蔵。
 鼠小僧。
 文化面では、東洲斎写楽、十返舎一九(『東海道中膝栗毛』)、曲亭馬琴(『南総里見八犬伝』)。
 知識人では、蛮社の獄で処刑される渡辺崋山や高野長英などが名を連ねる時代でもあります。

◆69歳で亡くなる◆
 天保十二(1841)年の一月半ばに、疝癪気味(さしこみ)になり、腹痛を訴えて表御殿への出御を控えました。
 そこから約2週間後、一月三十日の朝8時頃、69歳の生涯を閉じました。
 
 一説には40人の側室に55人の子女をもうけた家斉。
 酒にも強く、諸行事でも浴びるように飲み、実家の一橋家から諌められることもあったそうです。
 将軍在位50年は、歴代将軍の中でも最長でした。
 治世の前半は松平定信による清廉な政治、定信が失脚してからの後半は化政文化で繁栄したり、天保の大飢饉で苦心したりしました。


 次回は家斉時代の前半の要・松平定信を取り上げたいと思います。
 ここまでお読みくださりありがとうございました。

コメント

非公開コメント

web拍手
コヤマライヴジム
ブクログ
カテゴリ
プロフィール

小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

QRコード
QR
リンク
検索フォーム