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徳川さんちの十五代:十一代・家斉 その2

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家斉時代前半の政治でまず挙げられるのは、老中・松平定信。
寛政の改革で有名ですが、どんな改革だったのか。定信自身はどんな人物だったのか。
今回は定信が白河藩主になるまでをお届けいたします。
お読みくださる方は続きへお願いします。


◆定信は吉宗の孫◆
 最初に挙げた、吉宗からの家系図を御覧ください。
 定信は、吉宗の次男・宗武の子になり、吉宗にとっては孫にあたります。
 宝暦八(1758)年の生まれなので、同じく吉宗の孫である安永二(1737)年生まれの家治からは、21歳年下になります。

◆期待された子ども時代◆
 子供の頃から文武両道、国学や和歌にも通じるという、才気煥発な少年であったそうです。
 家治も小さな従兄弟に目をかけていました。定信が5歳のときに田安家が火災になり一時期的に江戸城内で暮らしたのですが、皆が代わりの屋敷へ移っていっても、定信は家治の手元にしばらく残されたということです。

 というのも、定信は田安家の跡取りとして、そして将軍継承候補の一人として目されていたようなのです。
 田安家を継いだ長兄・治済は身体が弱く、その次の兄・定国は幕府の命で伊予松山藩に養子に行っていました。
 将軍・家治には息子が2人いましたが、家治の項目でご紹介したように、1人は生後三ヶ月で亡くなっています。

 家春の長男・次男とは1歳違いだった定信は、御三卿の家の生まれとして、様々な期待をされていたようです。
 ただし将軍候補説は、この時点で家治の子・家基がまだ健在だったことから、後世の創作とも言われています。

◆田安家断絶なるも後を継げず、陸奥白河藩主の養子となる。将軍は家斉に◆
 しかしながら定信は安永三(1774)年、白河藩主・松平定邦の婿養子になるよう命じられてしまいます。17歳の時です。
 当主の健康状態に不安がある田安家としては断りたかったのですが、幕府の命令には逆らえませんでした。

 その安永三年に田安家当主・治察が死去しますが、定信の田安家復帰は認められません。
 結局定信は26歳で白河藩主を継ぐことになります。

 安永八年、家治の跡継ぎと目されていた家基が18歳で亡くなります。
 翌年の天明元年、一橋家の家斉が、8歳で家治の後継ぎと決まりました。
 実際には、家治が亡くなった後に15歳で11代将軍に立ちます。

◆なぜ定信は田安家も継げず、将軍にもなれなかったのか◆
 将軍の実子は亡くなり、御三卿のうち清水家は当主が病弱で跡取りなし、田安家はお家断絶。
 となれば、残った一橋家から将軍家継嗣を出すことになります。
 この辺り、家斉の父である一橋家2代目・治済(はるなり)と、時の老中・田沼意次の思惑があったとも言われています。

 一橋家には、意次の弟・意誠(おきのぶ)が家老として入っていました。
 その縁で意次と治済は親しくなり、治済の子・家斉が将軍になれるよう画策したのではないかと。

 さらに、家基が急死したのは毒殺だったのではないかとか。
 家基が急死する直前に定信が養子に出されたのはタイミングがよすぎるとか。
 田安家に跡継ぎがいては、一橋家の家斉が将軍継嗣になるのに不利だから、定信は養子に出されたのだとか。
 様々な憶測がなされています。


 将軍後継からは遠ざけられた定信。
 しかしご存知の通り、この後定信は老中首座に就任します。
 次回は白河藩主時代と、老中首座となって行ったことなどをお送りいたします。
 ここまでお読みくださりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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