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徳川さんちの十五代:十一代・家斉 その3

 前回に引き続き、松平定信についてお届けいたします。
 吉宗の孫として田安家に生まれ、賢く期待された子ども時代でしたが、将軍にはなれず、よそへ養子に出されてしまいました。
 そんな彼が白河藩主になり、老中首座に就任し、「寛政の改革」で政治を主導していくようになります。
 お読みくださる方は続きへお願いします。



◆白河藩主時代◆
 定信が白河藩主に就任したのは天明三(1783)年、26歳の時。世は天明の大飢饉の真っ只中でした。
 東北諸藩で餓死者が続出する中、定信は食糧確保につとめ、白河藩内ではひとりの餓死者も出さなかったそうです。
 倹約令や農政、武芸奨励などで藩政の立て直しにも尽力し、政治的手腕はよその藩からも讃えられたとか。


◆いざ幕政へ◆
 天明六(1786)年に10代将軍・家治が亡くなると、その下で権威を奮っていた田沼意次が失脚します。
 しかし、幕閣にはまだ田沼派の重臣たちが残っていました。

 その田沼派たちを一掃するチャンスが、翌七年に巡ってきます。
 未曾有の飢饉により、江戸で大規模な米屋の打ちこわしが発生したのです。売り惜しみや買い占めを行う米屋が横行し、苦しんだ町人たちが暴れました。
 その責任を問われる形で、田沼派は家斉から罷免されてしまいました。

 幕府は田沼の後として、定信を指名します。
 定信30歳、出番がやってきました。 


◆老中首座・寛政の改革◆
 老中首座(のちに将軍補佐にも)となった定信、これからが彼のターン、寛政の改革です。
 定信が行った、寛政の改革を見ていきましょう。

 天明の大飢饉によって、人々は飢え、米騒動は頻発し、年貢収入は激減してしまいました。解決するにはコメを作らねばなりません。
 定信は米屋の不当な売り惜しみや買い占めを取締り、農村の復興をしたりしました。江戸に農民が流入していたのに対し、帰農令も出しました。
 橋や護岸工事など河川の整備や、農業用水の確保のための堤の築造なども、農地のために必要でした。

 コメを安定させ、人々の暮らしと年貢収入を安定させると同時に、支出の削減も行いました。緊縮財政です。
 贅沢品のリストを作り、その製造や販売を禁止しました。手間ひまかけてこさえたお菓子、火消しの派手な火事羽織、細工が細かい櫛やかんざし、やたらと大きい雛人形などがリストアップされています。遊女や歌舞伎役者の衣装にまで言及されたこともありました。

 時の将軍・家斉には、大きな金魚鉢がほしいという要望に贅沢だとはねつけたり、間食を禁じたりしました。
 緊縮財政のお小言をくらったのは、大奥も同じでした。かなりの経費削減を申し渡されたそうです。

 戯作や浮世絵への出版統制。
 朱子学以外の学問を禁じた寛政異学の禁。
 林子平の『海国兵談』を絶版に追い込んだにもかかわらずの、伊豆・相模・房総を視察しての海防強化。
 などなどなどを行いました。


◆たった6年での失脚◆
 意外なことに、定信が老中首座だったのはたったの6年間でした。
 寛政の改革による緊縮財政への不満が、もっとも大きい理由とされています。
 幕府の内部でもあまりの経費削減に不満が出たり、定信がだんだんと独裁的になってきたのを懸念するものが出てきて、同志だった老中格・本田忠籌(ただかず)も反対派に転じてしまいました。
 幕政を追われた定信は白河に戻り、ふたたび白河藩の藩政を見て、白河では評価が高かったとのことです。


◆幕府に翻弄された運命・一橋治済の豪腕◆
 定信の人生をたどってみると、翻弄されたの一言に尽きるような気がします。
 そしてそれは、一橋家の治済(家斉の父)の力が大きかったと思います。

 以下、私の妄想が多大に含まれております(笑)
 田安家に生まれ、陸奥白河家に養子に行かされたのも、治済が仕組んだこととも言われています。
 家斉が将軍になったのも、その補佐を定信にさせたのも治済の画策。
 これ、前回の記事を書いているときには気づかなかったのですが、御三家や御三卿からは老中になれないので、わざと定信を養子に出したのかなと。

 定信は幼少期から頭がよく、真面目でお硬いタイプだったのでした。
 商業を奨励し付け届けというか賄賂をガッポリもらっていた田沼意次は、今となっては幕府にとって目の上のたんこぶです。
 やはり幕政は徳川一門でみるべき、御三卿の一橋家にも将軍になる権利がある、と一橋治済は思ったのでしょう。
 田沼を追い落とし、息子が将軍としてふさわしい年齢に育つまで、定信はちょうどいいと目をつけられたのかもしれません。

 しかし、定信は真面目すぎました。
 田沼の賄賂政治を一層し、徳川一門で政権を握ることには成功しましたが、財政の立て直しで財布の紐を締めすぎました。
 食糧であり貨幣でもある農業の復興をしたのはよかったと思います。しかし、贅沢禁止でせっかく育ってきた商工業が停滞し、経済全体が縮小します。
 賄賂をもらわず、老中となってから二ヶ月で2千332両の経費を、白河藩に負担させたと近習に記されています。
 15歳年下の将軍の生活を細かくチェックしてお小言を言い、大奥にも大鉈を振るう。そりゃあ小うるさいと思われたでしょう。
 別途記事にいたしますが、尊号事件という、一橋治済へ朝廷から位を与えることへのアレコレも起こします。
 老中首座、そして将軍補佐をクビになってしまいました。

 真面目なのはいいことだと思いますが、清濁併せ呑むことが出来なかった定信。
 残念ながら、政治の表舞台からは姿を消す事になりました。


 次回は、家斉時代の出来事についてお送りする予定です。
 50年もの治世ですし、歴史も動きはじめるところなので、いろーんなことがあったんじゃあないかなと思います←これから調べる(;^ω^)
 ここまでお読みくださりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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