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徳川さんちの十五代:十一代・家斉 その4

 前回、家斉時代といえば松平定信ということで定信をご紹介いたしましたが、寛政の改革についてさらに突っ込んで調べてみたので、今回はそれをお出しします。お読みくださる方は続きへお願いします。



◆経済の立て直し◆
 田沼意次の重商主義政策や浅間山の噴火や天明の大飢饉等で農業は大きな打撃を受け、農民が農業を辞めてしまったり、土地を放棄して江戸などの大都市へ出てきたりしました。

 老中首座となった松平定信は、農民が元の土地に帰れるよう旅費を出したり、別の土地へ移りたい者には土地を与えたり、米の備蓄を指示したりしました。

 荒れ地となった土地の再開発費用や、飢饉等の災害で減ってしまった人口を回復する(子ども養育金を捻出したりする)ため、諸国の富裕層にお金を貸し付けて利子を取ったりもしました。この利子は土地の代官が管理することになったため、代官がその地域の金融市場に大きな影響を与えることになります。

 旗本や御家人に対しては、棄捐令を出し、債権の破棄や軽減を行いました。
 田沼時代には、蔵米を担保に高利貸しを行っている札差が繁栄を極め、その陰で旗本や御家人が困窮していました。
 棄捐令により、一部の債権は無条件に破棄、その他の債権に関しては低金利での貸し付けとなります。
 棄捐させられた金額は118万両にものぼったそうですが、この見返りとして猿屋町会所が開かれ、経営が困難な札差に低金利でお金を貸すようにしました。そのため、廃業になる札差はあまりいなかったということです。 

 定信と言えば倹約も有名ですが、倹約して終わりではありませんでした。
 町入用(町の運営費)を倹約させ、町民の負担を軽くさせた上で、倹約して余ったお金の七割を災害対策費として積み立てするようにしました。七分積金といいます。

 こうした江戸の町のおカネに関することを支えたのが、勘定所御用達の面々でした。
 彼らは幕府から選ばれた江戸の富裕町人で、幕府勘定所の下勘定所に属して、幕府の御用金の調達やコメの値段の調整、上方の市場に対して江戸市場の立場を引き上げたいとする幕府の意図の元で動いたりしていました。幕末まで江戸在住の豪商を中心に任命され続け、幕府の経済政策に大きく貢献しました。

◆学派の統一・寛政異学の禁◆
 この頃の学問は儒学が基本でしたが、その中身は朱子学・陽明学・徂徠学・折衷学など様々な学派に分かれており、考え方がビミョーに異なっていました。
 まずは湯島聖堂(のちの昌平坂学問所)限定で朱子学を正当な学問とすることとなり、任官登用の学問吟味(試験)にも朱子学のみが採用されるようになりました。
 この動きは江戸だけでなく、大坂でも朱子学を正当な儒学とするムーブメントもじわじわとありました。

 これに対し、朱子学以外の学派も黙ってはいませんでした。
 特に徂徠学や折衷学からは反対されました。しかしそれは朱子学自体を否定するものではなく、朱子学だけが正当な学問であるとすることへの反論でした。学問や研究の自由があることこそ真の学問であり、儒学の持つ道徳精神のあらわれであるとの意見です。そりゃそうだ。しかし幕府としては幕臣にある程度まとまった教養や思想がないと困るし、けっこう難しい問題だったかもしれないとも思います。

 幕末に向かって様々な思想の人が出てきて、仲間内だと思っていた人たちの中でも分派したりしていきますよね。どの学派の人かとかまで突っ込んで調べてみると、意外な交友関係とか仲間割れの事実とかがわかったりして面白いんじゃあないでしょうか。

◆政治批判や世間を騒がせるのは禁止・出版統制令◆
 はい、私も大好きな蔦屋重三郎の出番です(笑)
 江戸の書律・蔦屋重三郎は世の中の動きを見逃さず、政治風刺たっぷりの本を次々と出版しました。
 蔦屋の元には山東京伝・恋川春町らが名を連ね、田沼意次の蝦夷地開発に伴う賄賂などを取り上げるものや、寛政の改革や倹約令などにも切り込みました。

 それを知った松平定信が黙っているはずもなく、出版統制令を出します。蔦屋は重過料、山東京伝は手鎖50日、恋川春町は武士の身分を剥奪されました(表向きは病気による御役御免とのことですが…)また、前にも書きましたが仙台藩士の林子平も、海防の必要性を説いた『海国兵談』が絶版とさせられてしまいます。

◆鬼平の建言・人足寄場◆
 火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵が上申した、無宿人を収容した更正施設です。鬼平ヽ(^o^)丿
 天明の大飢饉等で江戸へ入ってくる者が多くなり、無宿人が増え、どうしたものかと定信が平蔵に意見を求めたところ、収容&更正施設を建てたらよろしかろうということになったそうです。

 場所は江戸の石川島。何でもないただの無宿人や、軽罪でお仕置き済みの無宿人などを収容し、紙すきや藁細工、江戸城の堀攫いなどを行わせました。収容者が多くなると油絞り等の作業を追加したり、ある一定の罪以上のものしか収容しなくなったりと、需要は多かったようです。


 こうして並べてみると、本当にこれたった6年でやっちゃったのかと思います(;^ω^)
 それだけ定信は優秀だったのでしょう。

 次回こそ、この時代に起きた他の出来事をお届けいたします。
 ここまでお読みくださりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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