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徳川さんちの十五代:十一代・家斉 その5

 毎度ながらすみません、大変お待たせいたしましたm(_ _)m
 今回は松平定信以降の家斉時代を見渡しております。
 お読みくださる方は続きへお願いします。


◆徳川家による政治から再び家臣の政治へ◆
 寛政の改革を行った松平定信は、若い家斉が成長するに従い、また、政治の厳しさもあったようで、疎まれるように老中首座の座を追われてしまいました。
 定信に続いて政治を行ったのは、定信と共に政治を行ってきた、「寛政の遺老」と呼ばれる人物たちでした。
 メンバーは松平信昭・戸田氏教・本多忠籌ら。各藩の留守居役の綱紀粛正、幕政の財政政策、対外国政策などを推し進めていきました。

 その後を継いだのは、老中の水野忠成
 家斉の小姓であった忠成は家斉からの信任を受け、奏者番・寺社奉行・若年寄と出世コースをまっしぐらに走り、次の将軍・家慶の側用人になりました。
 忠成は財政再建のために8度も文政金銀を改鋳したり、関東の治安維持・商業統制のために関東取締出役や改革組合村(この辺は別記事にて)を作ります。
 しかし、田沼意次の子・意正などを起用して意のままに振る舞い、賄賂政治を再び行ったため、評判はあまりよくなかったようです。
 度重なる災害による農業の荒廃やその立て直し、商業の保護などのバランスは、なかなかうまくいきません。

◆近世の文化人が続々登場・化政文化◆
 よく化政文化という言葉を聞きますが、時代的にここです。
 寛政の改革でギチギチに締められていた規制が緩むと、様々な文化が花開きました。
 舞台では鶴屋南北の『東海道四谷怪談』でからくり仕掛けが受け、七代目市川團十郎や三代目尾上菊五郎らが活躍。
 浮世絵は葛飾北斎の『富嶽三十六景』、歌川広重の『東海道五十三次』
 読み物では滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』
 俳諧では与謝蕪村、小林一茶などが活躍しました。

◆治安を維持せよ・関東取締出役◆
 天明の大飢饉以降、浮浪者が続出し未だによくならない治安維持のため、関東取締出役が設置されました。
 博徒や無宿者、事件の容疑者などを幕領・私領問わず回り、取り締まる役で、八州廻りとも呼ばれました。
 天保年間に入ると農政にも深く関わるようになったり、鉄砲や酒造の改めなども行っています。
 余談ですが、幕末になると神奈川奉行と連携して攘夷浪士を取り締まったり、将軍上洛時には関東の治安維持強化にも携わることになります。

 関東取締出役の活動を支えるため、改革組合村なる連合も編成されました。
 近隣の村3〜5つをひとつの小さな組合とし、その小さな組合を10程度まとめて大きな組合として、関東取締出役の運営費を負担しました。
 各組合の中の交通の要衝を抑え、宿場などを寄場として、関東取締出役の拠点とさせたりもしました。
 後には関東取締出役と同じく、商業や農民の生活面の統制なども行うようになったり、保土ヶ谷宿(神奈川県・東海道)に道案内を常駐させたり外国人遊歩地を警備したり、攘夷浪士の取締りを助けたりしました。慶応二年の武州世直し一揆では農兵を出し、武装化も進んだとのことです。

◆化政・天保の経済・飢饉・一揆◆
 文化六(1806)年に三橋会所が出来ました。
 江戸の永代橋・新大橋・大川橋の無償架替えと修復の見返りに、菱垣廻船積みの問屋仲間会所設立を認められたものです。
 毎年1万200両の冥加金を幕府に納め、大坂や江戸で大量の買米を行い行い、経済の調整に尽力しました。

 しかし貨幣経済は舵取りが非常に難しかったようです。
 文政年間には8度の文政金銀を改鋳し、一時的に経済は持ち直したものの、悪質な貨幣が出回って結局悪化。天保年間には天保金銀が作られました。
 関東取締出役の項目でもご紹介したように、幕府の作った役の御用金も、組合などの単位を作らせて負担させなくてはならないほど、経済状態はよくありませんでした。

 そんな状態のまま天保年間に入ると、天保の大飢饉が起こりました。
 天保の大飢饉は江戸の三大飢饉に数えられますが、ほかの飢饉と異なり、「七年飢渇」と名付けられたほどの長期間に渡る大凶作でした。
 天保四年は夏に長雨と低温、東北で大洪水が起こり、米どころである東北のコメの出来具合が3割程度、越後では収穫ゼロの地域も出たそうです。
 同六年は冷夏、同七年は風雨・大霜と凶作が続き、飢饉はピークに達しました。
 同七年には甲斐国・郡内と、三河国・加茂で大規模な一揆が起こり、水戸藩主の徳川斉昭も「内憂外患の例」として取り上げるほどでした。
 そして同八年には大坂で大塩平八郎の乱が勃発。大坂市中の5分の1が被災しました。

◆朝廷と幕府のビミョーな関係◆
 朝廷と幕府の関係も、この頃から少しずつ変化していきます。
 天明七(1787)年に天明の大飢饉が起こると、同年六月に京都御所周辺に、京都近郊の民衆が続々と集まってきました。そして南門や唐門(おそらく現在の宜秋門)に、お賽銭や願書が投げ込まれるようになります。奉行所へ飢饉を訴えましたが取り合ってもらえなかったため、御所へ訴えたと記録されています。
 集まった人数は一日に三万人とも五万人とも言われており、相当な数だったようです。
 旧暦六月といえば夏、暑い季節であったため、有栖川宮邸では茶所が作られ、後桜町上皇からはりんご3万個が配られました。
 時の天皇・光格天皇は事態を重く見て、朝廷あるいは幕府から施し米が出せないか要求しました。京都所司代と老中は天皇からの要求を受けて相談し、お救い米千石を出すことにしました。これを御所千度参りと言います。

 尊号一件は、先ほども出てきた光格天皇が、自分の父親に対して太上天皇の尊号を送ろうとして幕府に拒否された事件です。
 光格天皇の父親である閑院宮典仁親王は天皇の位についていなかったため、大臣の下という位に甘んじていました。
 自分が天皇となった光格天皇はそれを心苦しく思い、先例もあることから、閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号(天皇の譲位後の尊号)を贈ろうとしました。
 しかし松平定信を始めとする幕府側は、太上天皇の尊号は天皇の位についていない者に与えられるべきではないと拒否の姿勢。
 数度に渡る尊号授与の要求を幕府側ははねつけ、議奏・中山愛親を閉門、武家伝奏・正親町公明を逼塞、議奏・広橋伊光と武家伝奏・万里小路政房は差控えとの処分を下しました。

 幕府が朝廷や天皇への相談なしに公家の処分をしたことはなく、天皇や朝廷や公家から幕府へ施し米や位の授与について相談したこともなく。
 これまでは表向き静かだった幕府と朝廷の関係が、少しずつ変化してきたのもこの時代からでした。
 こういったことも踏まえて幕末を見ると、また違った視点が生まれるかもしれませんね。


 次回は家斉時代の出版物や。外国との関わりについてお送りする予定です。
 ここまでお読みくださりありがとうございました。

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小山奈鳩

Author:小山奈鳩
時々江戸時代(主に幕末)へ暴走します。

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